Uttara Bhaga
DharmaCosmologyHari-HaraPhilosophy

Uttarabhāga

The Second Part -- Dharma Encyclopedia

『ナーラダ・プラーナ』後分(ウッタラ・バーガ、第二巻)は、聖地巡礼(tīrtha)と誓戒・斎戒(vrata)を志向する教説書として構成されるが、その冒頭は「ティールタの功徳(tīrtha/mahatmya)」の衝動全体を、厳密なヴァイシュナヴァ(Vaiṣṇava)のヴラタ神学に結びつけている。とりわけエーカーダシー—ドヴァーダシー(Ekādaśī–Dvādaśī、Harivāsara)を救済の軸として讃え、その果報は財や誇示ではなく、bhakti(帰依・敬愛)と正しい遵守に依ると説く。 本巻の特色は tithi-vicāra(ティティの精密な判定)への強い強調である。断食の時間帯、pāraṇa(斎明け)の時刻、祖霊・祖先への儀礼(pitṛ)を、月暦に基づき誤りなく定めることが dharma 上の決定事項とされ、時刻の過誤が行為の果を変え得ると示される。dharma は個人の好みではなく、宇宙的秩序として拘束力をもつ。 続いて、ヤマ(Yama)とブラフマー(Brahmā)の論争による「宇宙の法廷」的モチーフが現れ、ヴィシュヌの信徒に対する処罰権限が吟味される。Hari-nāma(ハリの御名)と Viṣṇu-bhakti は、真実の帰依者にはヤマの懲罰が及ばないほど救済的であり、偶然の御名の唱名さえ霊的転回をもたらすと語られる。 ルクマーṅガダ(Rukmāṅgada)とモーヒニー(Mohinī)の長大な物語循環は、真実(satya)と誓いの完全性(satya-parīkṣā)を、欲望と王としての責務の狭間で試す生きた事例となる。ここから教えは rāja-dharma(王法)と家の倫理へ広がり、臣民の保護、悪の抑止、清廉な統治、布施(dāna)、曲がった策の回避が説かれるとともに、同意と公平、母への敬意、妻たちの関係と嫉妬の調御が修行として位置づけられる。 さらに ahiṃsā(不殺生・不害)が高く掲げられ、狩猟や殺生は高次の王法と真の礼拝に相容れないと批判される。業(カルマ)の因果、堕落と回復を示す小話(「トカゲの解脱」など)を通して、dharma と bhakti への接触が運命を急転させ得ることを示し、後分が向かう聖地地理と実践による解脱への道を準備する。

Adhyayas in Uttara Bhaga

82 chapters to explore.

Adhyaya 1

The Description of the Glory of Dvādaśī

本章は、ハリ(ヴィシュヌ)の御腕と蓮華の御足を讃える吉祥の偈から始まり、ヴァイシュナヴァの守護と恩寵を全体の枠組みとして示す。マーンダータ王はヴァシシュタに、罪という恐るべき「薪」を焼き尽くす「火」とは何かを問い、知らずに犯す罪(「乾いた」)と知って犯す罪(「湿った」)を区別し、さらに過去・現在・未来の三時にわたる罪についても尋ねる。ヴァシシュタは、その浄化の火こそハリの聖日エーカーダシー(Ekādaśī)であり、自己制御、断食、マドゥスーダナへの礼拝、儀礼的沐浴(dhātrī/āmalakī との結びつき)、そして夜の徹夜によって守るべきだと説く。経文は、エーカーダシーが幾百生に積もった罪を灰にし、アシュヴァメーダやラージャスーヤをも上回る功徳をもたらすと断言する。世俗の福(健康、配偶者、子、王権)と究極の果(天界と解脱)を約束し、名高いティールタ(tīrtha)よりも、ハリの日を守ることがヴィシュヌの住処に至る決定的手段であると示す。その果報は母方・父方・婚姻の縁にある親族の救済にも及ぶ。ドヴァーダシー(Dvādaśī)は、罪を焼く行の完成を告げる最終の「火」として讃えられ、ヴィシュヌローカへ導き、再生を防ぐ。

27 verses

Adhyaya 2

Tithi-vicara (Determination of Tithi for Fasts, Parana, and Pitri Rites)

ナイミシャーラニヤの場で、聖仙たちはスータ(ヴィヤーサの弟子)に、断食の正しい規則――ヴラタをティティ(tithi)の終わりまで守るべきか、あるいはティティの始まりから守るべきか――を問う。スータは、デーヴァに向けた斎戒はティティの「成就(完了)」を重んじる一方、ピトリ(祖霊)に向けた行は祖先を満たす「ムーラ(根本の満足)」を重視すると説き、pūrvaviddhā/viddhā(ティティ重なりによる欠陥)の運用規則を示す。日々の遵守は「日の出に触れるティティ」を決定基準とし、pāraṇa(破斎)と臨終はその瞬間に優勢なティティを採り、祖霊儀礼(pitṛ-karman)では日没域に触れるティティを「完全」とみなす。続いて Ekādaśī/Dvādaśī の扱いとして、Ekādaśī が刺される(viddhā)場合、Dvādaśī 断食が必須となる場合、そして pāraṇa は Trayodaśī に行うべきことを述べ、曜日やナクシャトラ(例:Śravaṇa)による条件も挙げる。聖仙たちはさらにユガと saṅkrānti の暦法へ話題を移し、ユガの始まり、ayana、太陽の入宮測定に関する簡潔な技術注記が添えられる。章末では、viddhā のティティにおける礼拝・布施・ジャパ・ホーマ・沐浴・śrāddha は果報を失うと強く戒め、正確なヴラタ規定(vrata-kalpa)のため時法の達人に相談するよう勧める。

47 verses

Adhyaya 3

Yama’s Journey to Brahmaloka (Ekadashi–Dvadashi Mahatmya in the Rukmangada Cycle)

聖仙たちは、ヴィシュヌを喜ばせ諸願を成就させる詳細な作法を問う。スータは、フリシーケーシャは財ではなくバクティ(信愛)によって満足されると答え、ガウタマの語るルクマーングダ王の物語――乳海に臥す者/蓮華臍(Kṣīraśāyī/Padmanābha)への不動の帰依者――を紹介する。王は太鼓の布告によってハリヴァーサラの規律を定め、資格ある者にヴィシュヌの聖日を告げさせ、その日に食することを非難し社会的処罰の対象とし、布施とガンガー沐浴を勧める。本章は救済の主張を強め、口実であってもエーカーダシー/ドヴァーダシーを守ればヴィシュヌの界に至ると説く。ハリの日に食べることは「罪を食らう」こととなり、断食はダルマを支える。宇宙的帰結として、チトラグプタの記録が消え、地獄も天界さえも空となり、衆生はガルダに乗って昇る。ナーラダが罪人の不在をヤマに問うと、王の布告が衆生を自らの管轄から逸らしたのだとヤマは語る。嘆くヤマはナーラダとチトラグプタを伴いブラフマローカへ赴き、そこでブラフマーが壮大な宇宙論的図景の中に描かれ、ヤマの嘆きと会衆の驚愕で結ばれる。

68 verses

Adhyaya 4

Yamavākya (The Words of Yama)

ヤマはブラフマーに告げ、霊的威光の喪失は死よりも恐ろしく、欲がなくとも命じられた義務を怠れば堕落すると警める。さらに、信託を裏切ることや行政の腐敗の業報を説き、主人の財や公・王家の資源を横領する者は長く地獄に堕ち、虫・鼠・猫などに再生すると述べ、受託者のダルマを強調する。ヤマは自らが主の命令によってのみ統治するが、エーカーダシー(ハリの日)が罪を強力に滅するため、ルクマーングダ王によって「打ち負かされた」と語り、地さえも敬虔に「断食する」かのようだと言う。説法は、補助的儀礼よりもヴィシュヌへの専一の帰依を高く掲げ、供犠・巡礼・布施・誓戒、さらには苛烈な死でさえ、ヴィシュヌを欠けば最高目的に至らないと示す。エーカーダシーの斎戒は信者を父祖とともにヴィシュヌの界へ運ぶとされ、祖先の縁と業の因果をめぐってヤマは不安を抱く。最後に、ヴィシュヌの従者たちがヤマの灼熱の道を破り、クンビー地獄(Kumbhī-naraka)から衆生を解放して至上の住処へ導く。

29 verses

Adhyaya 5

Yama-vilāpana (The Lamentation Concerning Yama)

ウッタラ・バーガの信愛(バクティ)的地理を背景とする対話において、ヤマはブラフマー(ヴィラーンチャ/祖父)に語り、過失なき善行の人々が歩む、輪(チャクラ)を持つ主ヴィシュヌへ至る滑らかで確立された道を讃える。彼はヴィシュヌローカが計り知れず尽きることなく、無数の世界と衆生が至っても決して「満ちる」ことがないと宣言する。さらにヤマは、マーダヴァの住処に住することが、清浄・不浄を問わず、禁じられた行いをした者でさえも浄化するという、ハリへの近接の至上性を強調する。王命と断食がヴィシュヌの世界への上昇因となることが語られ、魂に対する自らの権能が失われるのではとヤマの憂慮は深まる。主は自ら信者をヴァイシュナヴァの領域へ運び、ガルダに坐せしめ、四臂の姿、黄色の衣、花鬘、塗香を授ける—サーユジュヤ/サールーピヤに似た成就の徴である。章はまた、ルクマーṅガダ王の功徳による王権と、その徳を支えた母を讃え、徳ある子の価値と、ダルマに敵対する不吉な子の害を教示する。結びに、ルクマーṅガダの誕生を比類なき「浄化」の配剤として称え、ハリ奉仕の中で見た前例なき浄化象徴にヤマが驚嘆するさまで終わる。

17 verses

Adhyaya 6

Brahmavākya (Brahmā’s Pronouncement on Hari-nāma and the Non-punishability of Viṣṇu’s Devotees)

ブラフマーは苦悩に応え、ハリ・ナーマとヴィシュヌ・バクティの決定的な救済力へと議論を導く。彼は、サウラの機会に主の御名を唱え、主のために断食することが至上の境地に至らせると説き、クリシュナへの一度の礼拝は十回のアシュヴァメーダのアヴァブリタをも凌ぎ、アシュヴァメーダの行者が再生に戻るのに対し、バクタは輪廻に戻らないと断言する。さらに、クルクシェートラ、カーシー、ヴィラジャーといった大ティールタも、舌に宿る二音節「ハリ」に比べれば相対化される。臨終にハリを憶念すれば重罪さえ超えられるとして、バクティ中心のモークシャ・ダルマを示す。続いて権威のダルマへ移り、宇宙の執行者や官吏はジャナールダナ/マドゥスーダナの信徒を認め、拘束してはならず、彼らを罰すればその報いは執行者に返ると説く。ドヴァーダシーの遵守は動機が混じっていても本質的に浄化すると宣言され、ブラフマーはヴィシュヌの信徒に対する不義の対抗となる行為には加担しないと述べる。

18 verses

Adhyaya 7

Brahmā’s Discourse to Mohinī (Harivāsara, Desire, and the Satya-Test of Rukmāṅgada)

本章は、ヤマがハリへの信愛(Hari-bhakti)の至高を認めるところから始まる。ハリを憶念し、断食し、讃嘆する者はヤマにも拘束されず、たとえ偶然に「ハリ」と口にしただけでも輪廻が断たれ、ヤマの名簿から除かれるという。サウティは、ヤマの職分を尊ぶべきだと省察するブラフマーの思いを語り、そこからモーヒニーのように人を惑わす美しい乙女が現れ、欲情への教訓的な糾弾が示される。禁じられた関係への欲望は、たとえ心中の思いであっても地獄に導き、積んだ功徳を滅ぼす。ブラフマーは身体を骨・肉・不浄として観ずる「解剖的」観想によって迷妄を破り、乙女に使命を授ける。物語は、離欲と真実の模範であるルクマーングダ王と王子ダルマーングダへ移り、乙女が誓いで王を縛り、ハリヴァーサラの斎戒を捨てさせ、最後には自らの子を斬首せよと求めるという、極限のサティヤ・ダルマ試験が企てられる。真実に揺るがぬ者にはヴィシュヌの住処が約束される。

74 verses

Adhyaya 8

The Description of Mandara (Mandaropavarṇanam) in the Mohinī Narrative

スータは、蓮華の眼をもつ女神が、寺院の聖域へ進むための名をブラフマーに乞う場面を語る。ブラフマーは彼女を「モーヒニー」と名づけ(サグナの呼称)、その臨在には癒やしと歓喜を与える力があると告げる。女神は礼拝して旅立ち、諸天に見守られつつマンダラ山へ向かい、たちまち到着する。続いて章はティールタ風の地誌へ広がり、ヴァースキと乳海攪拌にまつわる縁起、海の尺度と深さ、クールマの骨から生じた乳の流れと火、そして宝石と薬草の宝庫・神々の遊楽の地・タパスを燃え立たせる霊地としての山を描く。聖なる拠り所として、七ヨージャナに及ぶ青く輝く岩座、十手量のカウリーシャ・リンガ、名高いヴリシャリンガの祠が挙げられる。モーヒニーはラーガ/ターラ、ムールッチャナー、ガンダーラの響きを備えた精妙な聖楽を奏し、不動のものにさえカーマを昂ぶらせる。その音を聞いたディガンバラの苦行者は女に変じ、パールヴァティーの眼差しの下、欲望と羞恥の狭間で揺れつつモーヒニーに近づく。

25 verses

Adhyaya 9

The Dialogue between Rukmāṅgada and Dharmāṅgada

スータは、ハリに篤く帰依する王ルクマーṅガダが、王権を子ダルマーṅガダに譲ろうとする次第を語る。退位はダルマであり、有能な子に統治を託さねば父のダルマとキールティ(功徳ある名声)は衰えるという。真の「子」とは父の重荷を担い、名誉において父を凌ぎ、父訓を敬って守る者であり、怠ればナラカに堕すと説く。さらにルクマーṅガダは、臣民を守り、病や障がいなどの口実があってもハリの聖日に断食を厳守させることの苦労を述べ、規律こそ公共の福祉のための王の務めだと位置づける。ダルマーṅガダは任を受け、民に向かって、正しい処罰が行われるところではヤマの支配は無効になると教える。ジャナールダナを念じ、所有への執着を捨て、身分・境遇に応じた義務を果たし、特にドヴァーダシーに重きを置いてハリの日の断食を厳格に守れと勧める。章末では、ヴィシュヌがハヴヤ/カヴヤを担い、太陽と虚空に内在する宇宙の至上者であることが讃えられ、あらゆる行為をプルショーत्तマに捧げるべきだと説かれる。満足したルクマーṅガダは祖霊界(ピトリの世界)に至り、徳ある子によって得た「解脱」をもって妃を称える。

50 verses

Adhyaya 10

Rukmāṅgada–Vāmadeva Saṃvāda: Ahimsa, Hunting, and the Fruit of Dvādaśī-Bhakti

ヴァシシュタは王妃がルクマーṅガダ王に授けた諫言を語る。真の王法(rāja-dharma)とは動物殺生を捨て、ヒンサー(hiṁsā)によらず、正しい供犠とバクティ(bhakti)によってジャナールダナを礼拝することだという。感官の放縦は苦を招き、家庭でフリシーケーシャ(Hṛṣīkeśa)を拝することさえ屠殺より勝ると説く。さらに暴力の罪は、承認者・殺害者・教唆者・食する者・調理する者・手段を与える者の六者に分有されると定め、アヒンサー(ahiṁsā)を最高のダルマと宣言する。王は森へ赴くのは狩猟ではなく護衛のためだと答える。やがて美しい庵に至り、仙人ヴァーマデーヴァに会うと、彼は王のヴァイシュナヴァの信愛を讃え、バクティは出生に勝り、ドヴァーダシー(Dvādaśī)の守持が人々をヴァイクンタ(Vaikuṇṭha)へ導くと語る。ルクマーṅガダは謙虚に、非凡な妃・繁栄・健康・信心深い子を得た過去の功徳(puṇya)は何かと問うて、現在の幸運をヌリハリ(Nṛhari)への功徳と信愛の成熟として受け止める。

69 verses

Adhyaya 11

The Vision of Mohinī (मोहिनी-दर्शनम्)

ヴァシシュタは場面を整え、ヴァーマデーヴァが王の問いに答えて業の背景を明かす。かつてシュードラとして貧困と家庭の苦に沈んだが、ブラーフマナとの交わりとティールタ巡礼によって転じたのである。マトゥラーにて、ヴィシュラーンティでヤムナーに沐浴し、ヴァラーハ寺院の縁において、ヴァーマデーヴァはアシューニャシャヤナの誓戒を説き、四度のパーラナーで成就すると示す。シュラーヴァナ月のドヴィティーヤーには、ラクシュミーとともにジャガンナータ(ヴィシュヌ)を供物で礼拝し、寝台と衣服を施し、ブラーフマナに供養すれば、繁栄と罪滅が得られる。ドヴァーダシーの礼拝はヴィシュヌとのサーユジュヤ(合一)に結びつく。物語は王権と離欲へ移り、王は統治を子に託し、ヴァーマデーヴァは親への孝順が単なるティールタ沐浴に勝ると讃える。解き放たれた王はマンダラへ赴き、宇宙の山々と黄金の界を見、ついにモーヒニーの妙音と姿に心を奪われる。彼女は語りかけ、結合の前に正法にかなう布施を求め、ダルマと欲望の試練を設ける。

48 verses

Adhyaya 12

Samayakaraṇa (Determination of Proper Times / Formalizing the Condition)

ヴァシシュタは、ルクマーングダ王がモーヒニーの臨在に目覚め、欲情に圧されてその美を讃え、王権・地下の都・財宝、さらには自らの身さえ差し出すと申し出た次第を語る。だがモーヒニーは物質的な誘いを退け、「しかるべき時」に自分が求めることはためらいなく実行するよう求め、出会いを情欲からダルマに基づく拘束力ある約定へと転じさせる。王がすべての条件を受け入れると、モーヒニーは三界に響く王のダルマと真実(サティヤ)の名声を引き合いに、誓約の証として右手を求める。王は生涯の真実を誓い、手を与えることを十分な証とし、さらに積み重ねた功徳をも履行の担保として賭す。王はイクシュヴァーク族の系譜、父リタドヴァジャ、自身ルクマーングダ、子ダルマーングダを名乗り、マンダラ山に至ってモーヒニーの歌に引き寄せられた経緯を述べる。モーヒニーは自らがブラフマーより生まれ、マンダラで苦行しシヴァを礼拝して、シヴァの恩寵により王を得たと明かし、王の手を取り起こす。章は、誘惑のただ中におけるサマヤ(誓約)と証、そしてダルマの重みを強調して結ばれる。

34 verses

Adhyaya 13

Mohinī-Saṃmohana (The Enchantment of Mohinī)

ヴァシシュタは、モーヒニーがルクマーṅガダ王に対し、グリヒヤ・スートラの作法に従って直ちに婚姻を結ぶよう促す一段を語る。未婚の乙女が懐妊することは社会的にも祭式的にも重大な過失であるとし、プラーナに説かれる非難される出生(ディヴァーキールティ)を引いて、三種の「チャンダーラの出生」と見なされる系譜—未婚の娘からの子、同一ゴートラ内の結合、そして父がシュードラで母がブラーフマナの場合—を列挙する。成婚の後、王は深いバクティを示し、彼女の望みを叶えると誓う。モーヒニーは共妻の嫉妬という難題を掲げ、妻の規範として、貧しさの中でも夫の住む所に住むべきであり、夫の正当な居所を離れることは非難され、暗い業果を招き得ると説く。彼女は王に従って都へ赴く決意をするが、物語は自滅的な意図をほのめかし、優雅な不吉さをもって章を閉じる。

26 verses

Adhyaya 14

The Liberation of the Lizard (Godhā-vimukti)

ヴァシシュタはルクマーṅガダ王に、山を下る途中で鉱石のように不思議な形象が見えたことを語る。地に着くと王の馬が地面を踏み、現れ出たばかりの家トカゲ(godhā)を傷つけてしまう。王が慈悲に動かされ冷たい水で蘇らせると、彼女は告白する――シャーカラ(Śākala)で護符・守護粉のような強制的な降伏手段を用いて夫を支配し、重病に至らせたため、タームラブラーシュトラ(Tāmrabhrāṣṭra)地獄に堕ち、卑しい再生を重ね、長くトカゲの身に留まったのだと。彼女は王の功徳による救済を願い、とりわけヴィジャヤー日(Vijayā)の善行の不滅の果、シュラヴァナ・ドヴァーダシー(Śravaṇa-dvādaśī)の斎戒とトラヨーダシー(Trayodaśī)での正しいパーラナ(pāraṇa)、さらにサラユー河・ガンガー河の浄化力と家におけるハリ想念(Hari-smaraṇa)を挙げる。モーヒニーは当初、厳格な業報を主張するが、王はハリシュチャンドラ、ダディーチ、シビ、ジームータヴァーハナの例で慈悲を説き、功徳の回向を決意する。王が積んだプンニャ(puṇya)を授けると、トカゲは身を捨てて天の荘厳を得、ヴィシュヌの諸世界へ赴き、帰依と慈悲とヴラタの果による解脱(mokṣa)を示す。

75 verses

Adhyaya 15

Dialogue of Father and Son (Pitṛputra-saṃvāda) — Mohinī Episode

王が罪より解き放たれると、王とモーヒニーは風のごとく速い馬に乗り、天空を行きつつ森・河・集落・城砦・繁栄の地を見渡し、ヴァーマデーヴァの庵を一瞬望む。王はヴァイディーシャに至り、統治を回復する。子ダルマーングァダは同盟諸王に囲まれ、父を迎えに進み出ることの礼法と功徳を論じる。無礼との諫めがあっても王子は多くの王と進み、伏して礼拝し、ルクマーングァダは愛情深く抱き起こして抱擁する。ついで父は王法(ラージャ・ダルマ)を問うて治政を試す—臣民の保護、正法にかなう収入、ブラーフマナへの扶助、柔和な言葉、牛の養護とチャンダーラの家々にまで及ぶ配慮、公正な裁き、度量衡の整備、過重な徴税の回避、賭博と酒の禁戒。さらに眠りをアダルマの根と断ずる。ダルマーングァダは幾度も礼拝し、父への従順こそ子の最高のダルマであり神であると誓う。章末、王子はモーヒニーの美に驚き、マーヤーを疑いつつ、王家にふさわしいと讃える。

48 verses

Adhyaya 16

Pātivratya-kathana (The Narrative of the Pativrata)

ヴァシシュタは王に、ルクマーングダ—ダルマーングダの系譜に属する一連の物語を語る。ルクマーングダは、デーヴァギリで苦行(タパスヤ)を行った乙女スダルシャナー/モーヒニーを、マンダラにおける神意の縁によって得たことを述べ、彼女をダルマーングダにとっての母なる姿として示す。ダルマーングダは模範的な孝敬を実践し、平伏礼拝し、足を洗い、その洗足の水を頭に戴き、彼女の妖艶な姿に対しても厳しく自制する。物語はさらに、豪奢な贈り物と装身具の神話的由来を語り、王のダルマ(rāja-dharma)とバクティに基づく布施の徳を強める。続いて教訓が明確となり、王の愛妃を敬う倫理を説き、嫉妬や共妻の争いを戒め、夫の安寧にかなう奉仕を讃える。結びにはパティヴラターの譬えが置かれ、妻は苦難に耐え、厳しいヴラタを守り、ついには病み悩む夫とともに火中に入る—罪を浄め天界へ導くと描かれ—ヴラタの力に支えられた献身が功徳と超越への道であることを示す。

90 verses

Adhyaya 17

Mohinī’s Speech (Mohinyāḥ Bhāṣaṇam)

一人の息子は母サンドヒャーヴァリーに、嫉妬を捨ててモーヒニーを共妻として敬うよう勧め、共妻を母のごとき正しさで遇する稀有のダルマを讃える。サンドヒャーヴァリーは同意し、速やかに果報を与え大罪を滅する至上の誓願の力を称え、善き一人の子は悩みをもたらす多くの子に勝ること、子は生涯母に負債を負うことを説く。彼女の一瞥で器は六味の食で満ち、モーヒニーは儀礼にかなう慎みで給仕し、家は食後の作法(水による清めとタームブーラ)を整える。息子の母への敬愛に驚いたモーヒニーは、正しい子の母となることを決意して王を招く。王が来ると、モーヒニーは王権の華やぎへの執着と夫婦の務めの怠りを戒め、繁栄と地位はプンニャ(福徳)より生じ、統治は有能な後継に委ねるべきだと論じる。章末、王は謙虚に応答し、母性・婚姻・王道の調和としてのダルマが教訓の頂点として示される。

58 verses

Adhyaya 18

Honoring the Mother (Mātṛpūjanam): Consent, Equity, and Dana to Restore Household Dharma

疲れ果て、モーヒニー/ヴィモーヒニーの迷妄に覆われた王は、王子に「彼女を妻として敬え」と命じるが、モーヒニーは去ってしまう。正気に戻った王は、彼女の諭しに従う。モーヒニーは王をダルマへと導き、年長の王妃たちを慰めよ、そして「若い妻」を立てて正妻を辱めれば破滅を招き、貞節な妻の涙は霊的安寧を焼き尽くすと警告する。物語は比類なきサンディヤーヴァリーの称賛へ移り、家の母たちが集って、毒・火・剣の刃に譬えて自滅の欲望を戒める。彼女たちは規範を示す――夫が別の妻を迎えることは許されるが、必ず年長の妻の同意を得ること、年長の妻には二倍の分け前と望むものを与えること、そして夫婦は iṣṭa と pūrta の功徳を共に修すべきである。王子は大いなる布施(dāna)として、財宝・都市・戦車・黄金・召使・牛・穀物・ギー・象・駱駝・香料・器具などを施し、すべての母を分け隔てなく敬って家門の和合を確かなものとする。満足した母たちは、王が嫉妬なくモーヒニーを享受できるよう祝福し、母への尊崇(matṛ-sammāna)と公正な分配によって家の秩序を回復するという本章の主題を結ぶ。

56 verses

Adhyaya 19

The Description of Mohinī’s Love Episode

ヴァシシュタはダルマーングダに王法(rāja-dharma)を説く。悪を滅し、常に警戒し、交易を守り、布施(dāna)を行い、曲がった策を避け、国庫と民を賢く治めよ—蜂が花から精髄を集めるように価値を引き出せ、と。王子は父母を敬い、父王に安楽を備え、地を護る責務を担う。ダルマーングダの治世では、人々は罪を忌み繁栄し、木は実り、田は穀を生み、牛乳は豊かで、家々は規律正しく、盗賊を恐れずに暮らす。マードハヴァの日に結びつく行持は自然の安定と富を支えるとして讃えられ、ハリへのバクティ(bhakti)が社会の霊的中軸と示される。やがて物語は転じ、子の成功で若返ったかのような老王はヴィモーヒニー/モーヒニーに心を奪われ、情欲の迷いが増して、与えるべきでないものまで施すと豪奢な誓願を立てるに至り、マーヤーが分別を覆う力を明らかにする。

37 verses

Adhyaya 20

Dharmāṅgada’s Conquest of the Directions

ヴァシシュタは語る。ルクマーṅガダは官能の安楽に耽り八年を過ごしたが、九年目に子ダルマーṅガダがマラヤ山より帰還し、ヴァイシュナヴァの武器によって五人のヴィディヤーダラを打ち破った。彼は五つの如意宝珠を携え、それぞれ富、衣服・装身具、若返り/甘露、集会堂と食物、そして三界を翔ける天行の力という功徳をもたらし、両親の御足下に捧げ、モーヒニーの荘厳のために与えるよう勧める。さらに彼は、七大洲の平定、海への進入、ナーガの都ボーガヴァティーの征服と宝玉・真珠の首飾りの獲得、ダーナヴァの撃破を述べる。のちにラサータラでヴァルナと一年戦い、ナーラーヤナ武器で勝つが命は奪わず、馬と一人の乙女を妻として授かる。章末の教えは、繁栄は父に依ること、子は誇ってはならぬこと、ブラーフマナに与うべき分を留めてはならぬこと、そして子の働きは父の種子の威力によるという点である。ダルマーṅガダは新妻を母神(マートリ)たちの集会に連れて行き、加護と祝福を受けさせる。

32 verses

Adhyaya 21

Śikṣā-nirūpaṇa (Exposition of Discipline): Son’s Marriage, Paternal Duty, and Royal Administration

マーンダータはヴァシシュタに、息子の言葉を聞いた後の王の対応と、梵天(ヴィダートリ)に関わる妖艶なる女モーヒニーについて問う。ヴァシシュタは語る。ヴィシュヌへの帰依に満ちた王は愛妃とともに歓び、財宝を分配した――息子の婚礼のための分、モーヒニーへの分、そして残りは相応に配分された。王は一族の祭司に命じ、吉時を選んでダルマンガダの婚姻を法(ダルマ)に則り厳粛に執り行わせ、息子の婚姻を整えぬことは重大な罪過となり、整えれば息子の資質いかんに関わらず祭祀(ヤジュニャ)の果報を得ると強調する。ダルマンガダはシャーストラの儀礼に従い、ヴァルナの娘とナーガの乙女たちを娶り、ブラーフマナに布施し、父母を敬う。さらに母サンディヤーヴァリーに、天界の快楽ではなく父への奉仕こそ第一の誓願であると告げる。国政を任されると、巡察、裁きの手続き、度量衡の是正、家々の保護、社会規範を整え、最後に王権のもとでヴィシュヌ唯一の礼拝を厳格に施行する。

39 verses

Adhyaya 22

Kārtika-Māhātmya (The Greatness of Kārtika)

ヴァシシュタはマーンダータ王に、ハリヴァーサラ(Harivāsara)の遵守によって形づくられた理想の治世を語り、国土が繁栄しダルマに満ち、ヴィシュヌの覚醒をめぐる吉祥な季節の情景を描く。物語はルクマーṅガダとモーヒニーへ移り、魅惑と快楽の中にあっても王は、ヴィシュヌの聖日とカールティカ月の誓戒を決して怠ってはならぬと断言する。王はモーヒニーにこの月の至上性を説き、わずかな節制でさえ不滅の功徳を生み、ヴィシュヌの界へ至ると強調する。本章は具体的なヴラタ規定(Vrata-kalpa)として、苦行的贖罪(Kṛcchra・Prājāpatya)、断食の型、施灯(dīpa-dāna)を最上の布施とすること、カールティカの行(Prabodhinī、Bhīṣma-pañcaka、夜の徹夜)を示す。さらに聖地に結ぶ功徳(Puṣkara、Dvārakā、Śaukara/Varāha のダルシャナ)と、油・蜂蜜・肉・性の耽溺および特定の食物の禁を説く。結びに、チャートゥルマーシャ(Cāturmāsya)関連の誓戒を成就させるウディヤーパナ(udyāpana)の規則を述べ、各禁制に相応の布施を配し、ダクシナー(dakṣiṇā)とブラーフマナの導きを必須とし、怠慢の業報を警告する。

87 verses

Adhyaya 23

The Discourse of Rukmāṅgada (Prabodhinī Ekādaśī, Kārtika-vrata, and Satya-dharma)

モーヒニーは王ルクマーṅガダに、カールティカ月の誓戒(Kārtika-vrata)を捨てよと迫り、ヴラタの代わりに官能の結合を差し出して試す。欲望とダルマの狭間で揺れる王は、年長の王妃サンディヤーヴァリーを召し、彼女を損なうことなく信愛(bhakti)の功徳を保つため、クリッチャ/ヴァラクリッチャの苦行を修めるよう命じる。王がモーヒニーと逗留する間、太鼓の触れが町中に出され、共同体のカールティカ行が告げられる――早起き、一日一食、塩・アルカリを避ける、ハヴィシュヤ食、地に寝る、離欲、そしてプルショーत्तマ(Puruṣottama)を憶念すること。布告はプラボーディニー(ボーディニー)・エーカーダシーに至り、断食の徹底、ハリ(Hari)を「目覚めさせる」儀礼、供物による礼拝を命じ、従わぬ者は治安のため処罰され得るとする。これに直面した王は、エーカーダシーが解脱をもたらすと再確認し、規則と例外(ドヴァーダシーを欠かしてはならない;乳児・病弱者・妊婦・戦士/守護者は免除)を説き、食べよというモーヒニーの要求を退け、快楽より誓いの清浄を選ぶ。章末は長いサティヤ讃(satya-stuti)で、真実が太陽・月・諸元素・大地・社会の安定を支えるゆえ、誓戒を守ることこそ王の最高の倫理的必然であると結ぶ。

91 verses

Adhyaya 24

Mohinī-prashna (The Question about Mohinī)

ある王はハリヴァーサラ(エーカーダシー)に食を断つことを拒まず、プラーナの戒めを引いて不確かな教えを退け、エーカーダシーを厳格な禁制として説く。puroḍāśaでさえ「禁食」となり、衰えた者には根・果実・乳・水のみを最小限許し、食すれば地獄の果報があると警告する。これにモーヒニーは、ヴェーダ祭式の行者が完全断食を好まぬことを挙げ、王は苦行の誓いよりもsvadharma—臣民を守護する務め—を優先すべきだと挑む。王は聖典の序列を説き、ヴェーダは祭式の行為に現れ、家住者にはスムリティとして働き、プラーナは両者の根拠となって明らかにし、シュルティに欠ける暦と斎戒の細目を示し、prāyaścittaを罪の薬として教えると言う。モーヒニーはゴータマらヴェーダ通のブラーフマナを招き、食は宇宙を支え、役割を越えた誓行はparadharmaとなって破滅を招くこと、統治者にとっては統治こそ誓いであり、真の「供犠」とは血を流さぬ秩序ある国土であると論じさせる。

53 verses

Adhyaya 25

Mohinī-ākhyāna: The Trial of Ekādaśī and the King’s Satya-saṅkalpa

ヴァシシュタは、モーヒニーの言葉の後に起きた論争を語る。バラモンたちは王に、エーカーダシーの断食はシャーストラに拠らず、ことに統治者には不適切だとして、バラモンの権威に依れば誓戒を「破らずに」食べられると勧める。これにルクマーṅガダ王は、ヴァイシュナヴァの規範として、月の両半分のエーカーダシーに不食を守り、酩酊物を避け、バラモンへの暴力を慎み、エーカーダシーに食べれば霊的堕落を招くと断言する。王は、宇宙的権威でさえ誓願を揺るがせないと述べ、破誓者には地獄の報いを警告し、エーカーダシーを軽んじる理屈を批判する。怒ったモーヒニーは彼をアダルマな虚言と責め、賢者たちと去り、嘆きと王の苦境が続く。そこへ子のダルマーṅガダが介入し、モーヒニーを説いて戻らせ、父にサティヤ・サンカルパ(真実の誓い)を果たすよう促し、王の真実と世評を守るため自ら身売りさえ申し出る。誓いを破れば名声もダルマも崩れる、という教えで結ばれる。

83 verses

Adhyaya 26

Mohinī-Ākhyāna: Rukmāṅgada’s Refusal to Eat on Harivāsara (Ekādaśī)

モーヒニーの章では、ルクマーṅガダ王が、ハリ(ヴィシュヌ)の聖日ハリヴァーサラ/エーカーダシーを断食によって守り抜くという、妥協なき決意を語る。王は、名声の喪失、虚言の非難、政の破綻、世間の嘲り、愛する者との別離、さらには死や地獄さえも受け入れて、誓戒(ヴラタ)を破ることだけはしないと宣言する。本章は、エーカーダシーの斎戒を罪を滅する修行として讃え、名聞と霊的功徳を生むと説き、禁じられたものを食し、交わり、飲むといった越法の生き方を厳しく戒める。また「これは我がもの」という迷妄と執着が束縛の根であることを示し、ヴラタにもとづく自己制御と対比させる。誓いは「大太鼓の響き」のように公に権威をもって鳴り渡り、結びに、三界に広がるルクマーṅガダの名声はエーカーダシーへの忠誠によってこそ成り立つと確言される。

18 verses

Adhyaya 27

The Account of Kāṣṭhīlā (Kāṣṭhīlā-ākhyāna) within the Mohinī Narrative

ヴァシシュタは、ダルマーングダが母サンディヤーヴァリーを招き、ルクマーングダ王とモーヒニーの間を取り持たせた次第を語る。サンディヤーヴァリーは、ハリヴァーサラ/エーカーダシーの日には王は罪ある、また禁じられた食を口にしてはならぬと断言し、王の satya(真実の誓言)と vrata(戒・誓願)を守るため、モーヒニーに別の恩寵を求めよと勧める。説示はさらに strī-dharma(妻の法)へ広がり、妻は夫の正しい誓願を支えるべきこと、夫を adharma に追い込めば地獄の果報と卑しい再生を招くことが戒められる。モーヒニーは、過失と宿業、そして受胎の瞬間の心のあり方が子の性質を形づくるという要を長く説く。続いて挿話として、カースティーラーがサンディヤーヴァリーに前世を告白する—驕り、没落した夫を助けぬ冷情、家の貪欲が業の堕落を重ね、ついには羅刹の事件へ至る。そこでは誘拐、共妻の争い、欺き、迫る暴力が描かれ、章は危機の只中で途切れ、エーカーダシーの法と真実の誓いが物語の道徳的中心として据えられる。

155 verses

Adhyaya 28

Kāṣṭhīla-Upākhyāna: Rākṣasī, Spear-Śakti, and Kāśī as Śakti-kṣetra

突進する魔に怯えた羅刹女は、婆羅門の夫に燃えさかる槍Śaktiを投げよと促す。武器は羅刹を滅ぼし、その後、羅刹女は自らの羅刹の夫を滅びへ導き、婆羅門を洞窟へ誘おうとする。疑念と、女を軽々しく信じるなというニーティ・シャーストラの戒めの中で、対話はダルマの微妙さを説く長い教えへと転じる――ヴィシュヌのアヴァターラ、ヴィヤーサ、そしてモーヒニーの姿のもとでのシヴァでさえ、なぜ逆説的に見える行いを示すのか;サダーチャーラと定められた儀礼がなぜ重要か;真理はブラフマンであるが、害を避けるため言葉は慎みと分別により統御されねばならぬこと。さらにカーシー/ヴァーラーナシーは五gavyūtiの内にあるŚakti-kṣetraとして讃えられ、そこでの死は再生を断つと説かれ、婆羅門は乙女を父の家へ返すよう諭される。羅刹女は自らの宿業(カンダリー→呪い→羅刹女としての誕生)を明かし、護りの役目をダルマとして位置づけ、五大の前で誓い、最後に洞窟の財宝とともに婆羅門とラトナーヴァリーを空路でカーシーへ運ぶ。

90 verses

Adhyaya 29

The Description of Kāśī (Kāśī-māhātmya): Avimukta, Kapālamocana, and Śiva’s Purification

カーシュティーラはカーシー/ヴィシュヴェーシュヴァラへの到来を語り、カーシーを罪を滅し解脱を授ける聖地として示しつつ、モークシャにはヴァイシュナヴァのクシェートラが最上であるという教説を強調する。続いて、シヴァがブラフマーに対して犯した過失(第五の頭を断つ)により頭蓋(カパーラ)が離れず、ブラフマ殺しの罪 brahmahatyā が追い迫ること、そしてヴィシュヌが「業の果は定められた巡礼と苦行によって担うべき」と諭すことが述べられる。バダリカーやクルクシェートラ/ブラフマフラダなど多くのティールタを遍歴した後、シヴァは brahmahatyā の入れぬアヴィムクタの境界に至る。シヴァは諸アヴァターラと聖号を唱える多相の讃歌(ストートラ)でヴィシュヌを讃え、ヴィシュヌのクシェートラに住まう恩寵を得て、その地はシヴァ派の聖地としても認められる。涙からビンドゥサラスが生じ、沐浴ののち頭蓋がついに落ちてカパーラモーチャナ・ティールタが स्थापितされる。章末はカーシーの比類なき霊験を讃え、業が滅し、そこでの死が解脱を与え、世俗の願いを求める者にも利益があるとして、巡礼神学と救済論を結び合わせる。

73 verses

Adhyaya 30

Kāṣṭhīlā-Ākhyāna: Ratnāvalī’s Return, Co-wife Dharma, and the Phālguna Propitiation

カーシュティーラーは、ブラーフマナとその羅刹女の妻が、救い出された王女ラトナーヴァリーを伴って到来したことを語る。ラトナーヴァリーは父スディユムナ王の都に着き、衛兵アバーフが奏上すると、王はガンガー河畔へ赴き娘と再会する。ラトナーヴァリーは、羅刹タルパタによりアルナヴァガ山へ誘拐された経緯を述べ、羅刹女のブッディ・ヨーガ(智慧による機略)が羅刹の不法(アダルマ)的企てを覆し、ブラーフマナを救ったと讃える。ここでダルマの問いが起こり、彼女は「同じ座に坐したこと」(サハーサナ)を婚姻成立の基準として、ダルマの過失を避けるため自分をブラーフマナの妻として与えてほしいと願う。スディユムナ王は羅刹女に、ラトナーヴァリーを第二夫人として受け入れ、共妻の争いなく守護するよう請う。羅刹女は、公の礼拝を条件に承諾し、ファールグナ月の白分(ティティ8〜14)に七日間、音楽と演劇を伴う祭を行い、酒・肉・血などを供えて祀るなら、帰依者を守ると誓う。さらに物語は、貪欲と夫婦の財に関する教訓へ転じ、先妻プラーッカーリキーは貧しい時に夫を捨てたことで恥を受け、再会後に苦しみ、ヤマの定めた警告として「夫の財と命を守ることこそ女性のダルマ(ストリー・ダルマ)の核心」と諭される。

88 verses

Adhyaya 31

The Greatness of the Month of Māgha (Māgha-snāna, Harivāsara, and the Kāṣṭhīlā-Upākhyāna)

ヴァシシュタは対話を語る。サンディヤーヴァリーは、過去に夫婦の欺きと財の出し惜しみによる罪のため、恥辱の胎に向かう存在カースティーラーに出会う。憐れみを起こしたサンディヤーヴァリーが、かかる卑しい再生からいかに解脱できるかを問うと、カースティーラーはマ―ガ月の功徳(Māgha-māhātmya)を説く。すなわち、マ―ガ月の稀有さと至上性、日の出前の黎明沐浴、功徳の序列(自然の河湖の水が、汲んで運ぶ井戸水に勝る)、スナーナの目的はダルマへの奉仕であること、川がない場合の代替規則である。さらに、日々のダーナ(胡麻に砂糖を添える)、定められた穀物とギーによるホーマ、ブラーフマナへの施食、衣と菓子の布施、そしてスーリヤをヴィシュヌの無垢なる姿として礼拝する祈りを勧める。教えはエーカーダシー/ハリヴァーサラとドヴァーダシーへと高まり、名高いティールタをも凌ぐ、マハーパータカ滅除の無比の力が説かれる。種子を入れた新しい銅器にヴァラーハ金を施し、夜の守夜を行い、ヴァイシュナヴァのブラーフマナに供養し、正しいパーラナを成す儀礼が詳述され、不再生が約束される。最後にカースティーラーは、スローチャナーの過去のエーカーダシー功徳の四分の一を求め、水による儀礼的移譲が行われ、カースティーラーは光輝いてヴィシュヌの住処へ昇り、貞婦の法(pativratā-dharma)と業の因果が改めて示される。

60 verses

Adhyaya 32

Saṃdhyāvalī-ākhyāna (Mohinī-parīkṣā; Dvādaśī-vrata-mahattva)

ヴァシシュタは語る。ブラフマーの娘モーヒニーは迷妄を起こす意図で、サンドゥヤーヴァリーに残酷な要求を突きつける。妻としての施しとダルマを理解している証として、「命より愛しいもの」—息子ダルマ・アンガダの首—を捧げよ、特に少年がハリ/ドヴァーダシーの戒を破って食べたなら、というのである。サンドゥヤーヴァリーは震えるが平静を取り戻し、プラーナの権威により、ドヴァーダシーの守持は天界と解脱(モークシャ)を与え、財や縁や命のためにも捨ててはならぬと論じ、真実(サティヤ)と誓願を守りつつモーヒニーを満たすと誓う。さらに古例として、ブラーフマナを敬い足水を飲むことに篤いダイティヤのヴィローチャナと妻ヴィシャーラークシーを挙げる。アスラの勢いに苦しむデーヴァたちは、ヴィシュヌの諸相を列挙する長大な讃歌(ストートラ)で称え、ヴィシュヌは老いたブラーフマナに化してヴィローチャナの家を訪れ、ついにその寿命を求める。バクティとヴィシュヌの足水の受持により夫婦は神妙の姿を得て昇天し、ヴィシュヌはデーヴァたちの苦患を除く。サンドゥヤーヴァリーは結びとして、夫ルクマーングダのためであっても真実から逸れない、サティヤこそ最高の帰趣であり、真実を失うことは卑しき堕落だと述べる。

69 verses

Adhyaya 33

Dharmāṅgada’s Discourse (Dharmāṅgadopadeśa) in the Mohinī Episode

ヴァシシュタは、王妃サンディヤーヴァリーがルクマーングダ王に、たとえ耐え難い代償として我が子を犠牲にすることになっても、サティヤ(真実)とダルマを守り抜けと諭す次第を語る。ダルマを捨てることは個人的破局よりもなお悪いからである。章は「試金石」(nikaṣa)の主題を強め、誓願が試されるときハリ(フリシーケーシャ)が果報を授け、真実を確立するなら逆境さえ祝福となると示す。父としての愛と誓いの保持の間で引き裂かれたルクマーングダは、モーヒニーに代替の苦行を受け入れてほしいと懇願し、稀有な霊的宝—立派な子、ガンガーの水、ヴァイシュナヴァのディークシャー、ハリ礼拝、マーガ月の儀礼—を讃える。モーヒニーは、求めるのはハリの聖日に王が食事をすることだけで、子の死ではないと明かす。するとダルマーングダが進み出て剣を差し出し、父の真実を守るため約束を果たせと促し、自己犠牲を高き世界へ導くダルマとして説く。結びに、サティヤは解脱をもたらし名声を生むと讃えられ、神々でさえ信者(バクティ)の道を試す障碍として現れ得ると語られる。

70 verses

Adhyaya 34

The Vision of the Lord Granted to Rukmangada (Prepared to Slay His Son)

ヴァシシュタはモーヒニー物語の頂点を語る。王ルクマーṅガダはモーヒニーの要求に迫られ、ダルマへの誓願に縛られて、わが子ダルマーṅガダを斬ろうと剣を掲げる。子は孝と帰依の体現として自ら首を差し出し、その瞬間、地は震え、海はうねり、流星が落ちるなど宇宙が動揺し、ダルマの試練の重さが示される。モーヒニーは絶望して倒れ、神々の企てが失敗したと恐れる。決定的な刹那、バガヴァーン・ヴィシュヌが現身して王の手を取り、満足を宣言し、王と妃サンディヤーヴァリー、そして子を主の御国と御身の臨在へと迎え入れる。天界は歓喜し、運命の記録者は帳簿を改め、賞罰は至高の神命のもとにのみ働くことが示されて物語は結ばれる。

27 verses

Adhyaya 35

Śāpaprāpti (Receiving a Curse) — Mohinī Narrative

モーヒニー—ルクマーṅガダの物語環の中で、ヤマは策が破れたと嘆く。ヴィシュヌの断食(ヴラタ)をわずかに守るだけでも衆生はヴァイクンタへ至るからである。ブラフマーと諸デーヴァは降下してモーヒニーを目覚めさせ慰め、彼女が恥じ入り力尽きているのを見る。長い譬喩の連なりにより、ダルマ・知識・言葉・儀礼は、正しい陶冶、適切な手段、慈悲、助言、そして如法の実行がなければ実りを失うと説かれる。デーヴァたちはモーヒニー・エーカーダシー(ヴァイシャーカ月白分)と王の妥協なき真実を讃え、ついにヴィシュヌが三者を御住処へ導く。続いて賃金と義務、扶養・糧を差し止める罪について倫理の教えが示される。モーヒニーは嘆き、崇高なヴィシュヌ讃歌(ヴィシュヌ・ストゥティ)を捧げる。帰還した苦行者/祭司は、見なしたアダルマと公の非難に憤りモーヒニーを糾弾し、ブラーフマナの言霊と水の呪詛の力によって彼女は焼き尽くされ灰となり、「Śāpaprāpti(呪いを受ける)」章は閉じられる。

88 verses

Adhyaya 36

The Account of Mohinī (Mohinī-upākhyāna)

ヴァシシュタは、ハリの聖日を犯し家族に対し罪を犯したモーヒニーが、スヴァルガ(天界)やヤマの地獄から拒絶される様子を語る。彼女の呪われた存在は地獄の罪人さえも焼き尽くした。パーターラ(地下界)からも追放された彼女はジャナカ王に懺悔する。神々は呪いをかけたバラモンに慈悲を乞い、バラモンはヨーガよりもヴィシュヌへのバクティ(信愛)が優れていると説く。宇宙に彼女の居場所がないという問題は、エーカーダシーの力によって解決される。

61 verses

Adhyaya 37

The Account of Mohinī (Mohinī-kathanam): Ekādaśī Nirṇaya, Daśamī Boundary, and Aruṇodaya

ウッタラ・バーガ(Uttara-bhāga)の信愛と儀礼の文脈において、モーヒニー(Mohinī)は諸天に向かい、エーカーダシー(Ekādaśī)を最上の浄化と宣言し、断食の規律とパーラナ(pāraṇa:斎明け)の正しい時刻を説く。本章はヴァイシュナヴァ(Vaiṣṇava)の規範として、通常のエーカーダシーと異なるマハー・ドヴァーダシー(Mahā-dvādaśī)の守り方、三日間の手順、そして日の出や真夜中にエーカーダシーが「分割/貫入」する場合の判定規則を示す。アルノーダヤ(Aruṇodaya)は二ムフールタ(muhūrta)と定義され、夜昼のムフールタ総数と季節変化に応じた比例調整も述べられる。日の出に触れるダシャミー(Daśamī)は非難され、誤った遵守を惑わすためモーヒニーがダシャミーの境界に置かれ、暦の誤りが霊的損害に結びつくことが示される。物語はさらに、彼女がヤマ(Yama)の名誉を回復し、怒りにより灰となるが、ブラフマー(Brahmā)がカマンダル(水瓶・kamaṇḍalu)の水で身体を復元し、祭司との和解に至ることを語る—そして黎明の時刻にモーヒニーを配し、正しいエーカーダシーの実践がヴィシュヌ(Viṣṇu)の功徳をもたらすと再確認して結ぶ。

47 verses

Adhyaya 38

The Description of the Greatness of the Gaṅgā

モーヒニーの問いとヴァスの権威ある答えによって構成される本章は、ガンガー(バーギーラティー)があらゆるティールタの中で比類なき至高であることを説く。ヴァスは、バーギーラティーの近くにあるだけで土地とアーシュラマが聖化され、ガンガーへのバクティは苦行(tapas)、梵行(brahmacarya)、祭祀(yajña)、ヨーガ、布施(dāna)、出離をも超える「最高の境地」を与えると言う。カリ・ユガの特別性が強調され、他のティールタはその霊験をガンガーに託すが、ガンガーは本源であり派生ではない。拝見すること、沐浴、ひと口飲むこと、水を携えること、さらにはガンガーの雫に触れた風に触れることさえ、重罪を含む罪を滅すると讃えられる。神学的には、ヴィシュヌ/ジャナールダナが液体の姿としてガンガー水に現前し、ガンガー水で儀礼を行う者にはシヴァの臨在も約束される。儀礼上の注記として、地上・パーターラ・天界を巡る運行、特定のティティにおけるヴァーラーナシーでの解脱の殊勝、そして水が古びないとの説が述べられる。結びに、ガンガーへの奉仕は天界、智慧、ヨーガの成就、そしてモークシャを授けると重ねて宣言する。

63 verses

Adhyaya 39

The Greatness of Bathing in the Ganges (Gaṅgā-snānā-mahātmya)

モーヒニー物語の枠内で、ヴァスはモーヒニーにガンガー(Gaṅgā)の救済力を説く。本章は段階的な解脱の教えを重ね、ただ拝見するだけ(darśana)でガルダが蛇毒を無力化するように罪が滅し、触れることと沐浴(sparśa・snāna)によってその功徳は家系の浄化へと広がり、祖先と子孫を幾世代にもわたり引き上げると語る。さらに、ガンガーの名を讃えて唱えることと憶念(nāma-kīrtana・smaraṇa)は距離に依らず、地獄に近い者さえ救い、「籠のように」積もった罪業を打ち砕くと示される。ガンガーに触れる功徳は、ナイミシャ、クルクシェートラ、ナルマダー、プシュカル等の大ティールタや、チャンドラーヤナの誓戒、アシュヴァメーダの大供犠に等しく、とりわけカリ・ユガにおいて勝れるとされる。正午と夕刻の沐浴で功徳が増すこと、ハリドヴァーラ、プラヤーガ、シンドゥ合流点などの霊地が讃えられ、最後にラヴィ(太陽)とヴァルナの神聖な証言によって、ガンガーに関わる沐浴、あるいは家で名を讃えるだけでも天界と解脱(mokṣa)に至ると確証される。

49 verses

Adhyaya 40

The Account of the Fruits of Bathing at Particular Sacred Places (Tīrtha-viśeṣa-snāna-phala)

ウッタラ・バーガのガンガー・マーハートミャにおけるモーヒニー—ヴァスの対話で、ヴァスはガンガー沐浴(Gaṅgā-snāna)の功徳を段階的なダルマの地図として説く。まず時に基づく序列を立て、マーガ月(Māgha)に絶えず沐浴する者はインドラ界に至り、さらにブラフマーの都へ至るという。北行期(uttarāyaṇa)に食を慎むなどの規律ある苦行と、サンクラーンティ(saṅkrānti)の沐浴はヴィシュヌ界(Viṣṇu-loka)に結び付けられる。続いて、春分秋分・夏至冬至の転換、Akṣayā tithi、マヌヴァンタラ/ユガの始まり、稀なるナクシャトラ・ヨーガ(nakṣatra-yoga)、パルヴァ(parva)、Mahodaya/Ardhodaya、日食月食時の沐浴といった希有の暦の合致を、功徳を倍増させ、生来の罪までも浄める機縁として讃える。次に場所へと論を移し、功徳(puṇya)は地により増大するとして、クルクシェートラ、ヴィンディヤ地方、カーシー(Kāśī)を経て、最上の解脱の三要所—ガンガードヴァーラ/ハリドワール(Gaṅgādvāra/Haridwar)、プラヤーガ(Prayāga)、海への合流点—を示す。さらにKuśāvarta、Kanakhala、サウカラ/ヴァラーハ顕現地、Brahmā-tīrtha、Kubja、Kāpila、サラユー—ガンガー合流のVeṇīrājya、Gāṇḍava、Rāma-tīrtha、Soma-tīrtha、Campaka、Kalaśa、Somadvīpa、ジャフヌの湖、Aditi/Tāraka、Kaśyapa/Śiloccaya、Indrāṇī、Pradyumna、Dakṣa-Prayāga、ヤムナー(Yamunā)など多くのティールタを列挙し、供犠に等しい功徳、病の除去、罪の滅尽、天界またはヴィシュヌの境地の成就を約束する。

55 verses

Adhyaya 41

Description of the Rules for Charitable Gifts and Related Rites (Gaṅgā-māhātmya)

ヴァスはモーヒニーに、ガンガーへの聖なる入水・沐浴(Gaṅgā-avagāhana)を起点として諸儀礼の果報を説き、ガンガーを功徳を増大させ、祖霊(pitṛ)を直接に救い上げる乗り物として讃える。本章は、ガンガー河畔でのサンディヤー(sandhyā)、クシャ草(kuśa)と胡麻(tila)による祖霊供養の灌水(pitṛ-tarpaṇa)を重んじ、ガンガー水が地獄(naraka)にある祖先にまで及ぶ驚異の救済力を持つと述べる。さらに、ガンガー沐浴を日々のシヴァ・リンガ(Śiva-liṅga)礼拝、真言のジャパ—八字真言「Oṃ namo Nārāyaṇāya」と五字真言「Oṃ namaḥ śivāya」—およびガンガー岸の土を用いた像・リンガの安置と灌頂に結びつけ、毎日の供養と入水による尽きぬ功徳を強調する。ヴァイシャーカ月(Vaiśākha、Akṣaya-tṛtīyā)とカールッティカ月(Kārttika)には、夜通しの覚醒と信愛の供物をもってヴィシュヌ、ガンガー、シャンブ(Śambhu)に捧げる誓戒(vrata-kalpa)が示される。後半は布施論(dāna-śāstra)の目録となり、ギーの乳牛、牛、黄金、土地(nivartanaの度量)、村の寄進、河畔の林苑と住まいの建立を挙げ、それぞれをヴィシュヌ界・シヴァ界・ブラフマー界・インドラ界・ガンダルヴァ界などのローカに配当し、最後に智慧(jñāna)とブラフマンの究竟実現へと帰結させる。

73 verses

Adhyaya 42

Procedure for the Guḍa-dhenū (Jaggery-Cow) Gift; Ten Dhenu-dānas; Yearlong Gaṅgā Worship and Darśana

モーヒニーはガンガー(Gaṅgā)の比類なき聖性を讃え、象徴的な「牛の布施」(dhenu-dāna)を、まずグダ・デーヌー(guḍa-dhenū:ジャガリー/粗糖で作る牛)から順に説くよう願う。ヴァシシュタが答えの枠組みを示し、家の祭司でシャーストラに通じたヴァスが儀礼を詳述する。すなわち、祭場の整え(牛糞で塗り清め、クシャ草を敷き、黒羚羊皮を東向きに置く)、ジャガリー牛と子牛の造作と向き、供物の重量規定、そして布施を聖別する姿形・装飾の要件である。さらに、牛としてラクシュミー(Lakṣmī)を招く祈りを授け、ダクシナー(dakṣiṇā)を添えてバラモンに正式に施すことを命じ、罪を滅する十種のデーヌー・ダーナ—ジャガリー、ギー、胡麻、水、乳、蜂蜜、砂糖、凝乳、宝石、「形相」(rūpa)—を列挙する。後半はこれを聖地信仰へ結び、吉時(アヤナ、ヴィシュヴァ、ヴィヤティーパータ、ユガ/マンヴァンタラの始まり、日月食)におけるガンガー供養(Gaṅgā-pūjā)と、米・乳・パーヤサ・蜂蜜・ギー・甘味・金属・香・花など定められた供物、プラーナ文献の礼拝マントラを説く。月ごとの修行は一年の誓願に至り、成就すればガンガーが直にダルシャナを授け、欲ある者には世俗の福、無欲の者には解脱(mokṣa)を与える。

45 verses

Adhyaya 43

Pūjādi-kathana — Gaṅgā Vratas, Tenfold Worship, Stotra, and Mokṣa on the Riverbank

ヴァシシュタの語りにおいて、バラモンのヴァスは、世に捨てられ拠り所を求めるモーヒニーに、シヴァの教えとして伝わる、ガンガー(Gaṅgā)および関連する聖なる河川に捧げる無上の誓戒と礼拝を説く。本章は段階的な修行を示し、nakta-bhojana(夜の食事の戒)と、ガンガー河畔で月ごとに行うヴラタ(とくに Māgha・Vaiśākha)へと導き、中心はシヴァ・リンガ礼拝である—pañcāmṛta による灌頂沐浴(abhiṣeka)、花と灯明の供養、牛の布施、バラモンへの施食、梵行、食の制限、そして mauna(沈黙)を含む。さらに、Jyeṣṭha 月の白分第十日(Hastā nakṣatra)に徹夜の守夜を行い、「十重」のガンガー供養、胡麻水の供献、piṇḍa-dāna、像の作成法(金属・土・粉で描く)、水生生物の奉納、北面してのガンガー車行(ratha-yātrā)を定める。教理部では身・口・意の十罪を列挙し、この儀礼と Daśaharā 真言のジャパにより罪が除かれると説き、続いて治癒・守護・梵への合一を約する長大なガンガー讃歌(stotra)を掲げる。結びに、非差別の神学(Śiva=Viṣṇu;Umā=Gaṅgā)と、ガンガーにおける臨終・憶念・遺骨の奉納による解脱の法、ならびにティールタの境界規定と聖地での贈与受領の禁を詳述する。

130 verses

Adhyaya 44

The Greatness of Gayā (Gayā-Māhātmya)

ヴァシシュタと王妃モーヒニーの対話において、モーヒニーはガヤー・ティールタの起源と名声を問う。ヴァスは、ガヤーは梵天(ブラフマー)の宿る至上の祖霊聖地(ピトリ・ティールタ)であり、「たとえ一人の息子がガヤーを訪れるだけでも子孫の理想が成就する」と祖先が讃えると説く。続いてガヤースラの物語が語られる。アスラの苦行が衆生を悩ませ、神々はヴィシュヌに帰依する。ヴィシュヌはマーヤーによってアスラを討ち、ガヤーにおいてガダーを持つガダーダラとして顕れ、解脱(モークシャ)を授ける者となる。梵天の臨在と聖域(クシェートラ)の境界が確証され、供犠、シュラーダッダ、ピンダ供養、沐浴の功徳—地獄を離れ天界/ブラフマローカに至る—が示される。例として、ヴィシャーラ王のガヤー・シュラーダッダが罪ある祖先をアヴィーチ/ヴィーチから救い、ヤマが商人にガヤーの儀礼を行ってプレータの境遇を脱するよう教える。章末は巡礼案内として、アクシャヤヴァタ、ダルマプṛṣṭha、ブラフマーラニヤ、ニフクシーラー、マーナサ、デーヌカ、グリドゥラヴァタ、ファルグ、ブラフマ・サローヴァラ等の諸小ティールタと各々の果報を列挙し、不滅の功徳と家系の向上を強調する。

92 verses

Adhyaya 45

The Procedure for Offering Piṇḍa (Funerary Rice-balls) — Gayā-māhātmya

ヴァスとモーヒニーの対話として、本章はまずプレータシラー(Pretaśilā)を、プラバーサ/プラバーセーシャ(Śiva)およびアトリの石に刻まれた足跡と結びつけて聖地化し、沐浴とピンダ(piṇḍa:葬儀の飯団子)の供養によって衆生をプレータの境涯から解放する力を示す。続いて厳格なガヤー・シュラーダ(Gayā-śrāddha)の作法を説く。すなわちプラバーセーシャへの礼拝、南方にてヤマ/ダルマとその二犬へのバリ供、そしてピンダの中核次第—祖霊ピトリの招請、プラーチーナーヴィータ(prācīnāvīta)の着用、南面して坐し、カヴィヤヴァーハナ・アナラ・ソーマ・ヤマ・アリヤマーを念じ、パンチャガヴ்ய(pañcagavya)で浄め、ティローダカ(tilodaka)を注ぎ、大麦・胡麻・ギー・蜂蜜を調合し、正しいマントラ形を守り、夫婦の共同供養を禁ずる。さらにガヤーは時を超えて常に適格であり(暦上の禁忌なし)、ピンダの材料も多様に許され、地獄や非人の胎を含む、夭折・苦患のあらゆる死者へ回向できると広げる。巡礼の行程はプレータ山、ブラフマー・クンダ、パンチャティールタ、北・南のマーナサ(太陽神スーリヤ礼拝とサピンダ化sapiṇḍīkaraṇa)を経て、ファルグー・ティールタでガダーダラを礼拝し、さらにダルマーラニヤ/マタンガ池へ至り、「第二日」の儀礼群として結ぶ。

105 verses

Adhyaya 46

The Greatness of Offering Piṇḍas at Viṣṇvādipada (Viṣṇupada) — Gayā Śrāddha Procedure and Fruits

ガヤー・マーハートミャにおいて、ヴァスはモーヒニーに、第三日の儀礼がbhoga(現世の福楽)とmokṣa(解脱)の双方を与え、ガヤーとの結縁に等しい功徳をもつと説く。まずBrahma-saras/Brahma-tīrthaで沐浴し、ついでsapinda-śrāddha、piṇḍa-dāna、tarpaṇaを、井戸とyūpaの間やブラフマーのyūpaなど霊験ある細所で行う。ブラフマーが定めたマンゴー樹に水を注ぎ、ブラフマーを周回して礼拝することで祖霊(pitṛ)の解放が強められる。さらにyama-baliと方位のbali(犬・烏への供物を含む)を真言と慎み深い作法で捧げる。行程はPhalgu-tīrtha、Gayāśiras、Viṣṇupadaへ進み、最後にsapiṇḍīkaraṇaで結ぶ。Viṣṇupadaを見、触れ、礼拝するだけで罪が滅し、pitṛが救済されるとされる。Bhāradvājaの父系への疑い、Bhīṣmaのśrāddha、RāmaがDaśarathaに捧げた供養などの譬話により、手で捧げるか地に置くかといった正誤と聖地の力が示される。Rudra、Brahmā、Sūrya、Kārtikeya、Agastya等の多くのpāda聖跡は、Vājapeya・Rājasūya・Jyotiṣṭomaなど大祭に等しい功徳として序列化され、GadālolāとKrauñca-pādaの由来も語られる。結びに、śilā-tīrthaとsapinda-śrāddhaを修すれば、多くの世代にわたりBrahmaloka、さらにはViṣṇu-sāyujya(ヴィシュヌとの合一)を得ると約束する。

58 verses

Adhyaya 47

Gayā-māhātmya (The Greatness of Gayā): Gadālola, Akṣayavaṭa, and the Śrāddha Circuit for Pitṛ-Liberation

ウッタラ・バーガの対話において、ヴァスはモーヒニーに、祖霊供養(pitṛ-tarpaṇa)とサピンディーカラナのシュラーダ(sapiṇḍīkaraṇa śrāddha)のため、段階的にガヤーを巡礼する法を説く。儀礼はガダーローラ(Gadālola/Gadāprakṣālana)での浄めの沐浴に始まり、アクシャヤヴァタ(Akṣayavaṭa)へ進んでシュラーダを修し、祖先をブラフマプラ(Brahmapura)へ「導く」。章は、ヨーガ睡眠(yoganidrā)に住する主と不滅のバニヤン樹への讃歌(ストートラ)風の礼讃を織り込み、由来譚として、ヴィシュヌが棍棒(gadā)で阿修羅ヘーティ(Heti)を討ち、ガダーローラと呼ばれる渡し場を聖別したことを語る。さらにガヤー周辺のティールタ(tīrtha)—河川、合流点、クンダ(kuṇḍa)、足跡、シラー(śilā)、そしてヴィシュヌ、シヴァ、ガーヤトリー/サーヴィトリー、ブラフマー、ガネーシャの祠—を密に列挙し、馬祭(Aśvamedha)に等しい功徳、7×3代の救済、ブラフマローカ/ヴィシュヌローカ/シヴァローカへの上昇などの果報を示す。教義の頂点では、ガヤーにおいてジャナールダナが祖霊の姿(Pitṛ-rūpa)であると明かし、正しいピンダ(piṇḍa)供養により三つの負債から解放されると約束する。結びに死を招く行為への戒めと、読誦(svastyayana)の功徳として名声・長寿・子孫繁栄・天界到達を讃える phalaśruti が述べられる。

95 verses

Adhyaya 48

The Greatness of Kāśī (Kāśī-māhātmya) and Avimukta’s Liberative Power

モーヒニーが先のガヤーの物語を讃え、さらにカーシーの詳説を求めると、家の祭司ヴァスは、ヴァーラーナシーを三界の精髄であり、同時にヴァイシュナヴァでもシャイヴァでもある、解脱(モークシャ)に比類なき霊地だと説く。本章は、カーシーに到来するだけで、ブラフマ殺し(brahma-hatyā)、牛殺し(go-hatyā)、師の床の罪(guru-talpa)、寄託物の盗み(nyāsa)といった最重罪さえ滅し、そこに住めば行いが清められ、恐れと悲しみが除かれ、ヨーガの成就が得られると述べる。続いて、聖域(kṣetra)の広がりと内なる「流路」を、イダー—スシュムナー(Iḍā–Suṣumnā)の象徴をヴァルナー(Varuṇā)と中央の流れに対応させて示し、区画と神々の名を挙げ、「アヴィムクタ」(Avimukta、「決して見捨てられぬ」)の称号を解き明かす。さらにマニカルニカー/シュマシャーナを至上のヨーガ聖座(yogapīṭha)として讃え、シュラーダ(śrāddha)、布施(dāna)、誓戒(vrata)、礼拝が莫大な功徳を生むとする。結びに、アヴィムクタで死する者にはシヴァ(およびルドラたち)が耳元に解脱の真言を囁き、地獄に堕ちず、輪廻(saṃsāra)へ戻らないと教える。

89 verses

Adhyaya 49

Tīrtha-yātrā-varṇana (Description of Pilgrimage to the Sacred Fords)

ヴァスがモーヒニーに教示する対話の中で、本章はアヴィムクタ/カーシーの北西部と中央部を、名高いリンガ、聖池、儀礼の要所に沿って巡礼案内として描く。まずサガラが安置した四面のリンガとバドラデーハ湖が語られ、そこでの沐浴は千頭の牛の布施に等しい功徳とされ、ティールタ沐浴(tīrtha-snāna)による功徳増大が示される。次に周辺の社とともにクリッティヴァーセーシュヴァラの所在を述べ、繰り返しのダルシャナが救済の智(tāraka-jñāna)を授けると説く。神名はユガごとに(Tryambaka、Kṛttivāsas、Maheśvara、Hastipāleśvara)変わるが、永遠の連続性が強調される。月ごとのチャトゥルダシー礼拝は異なる天界の果報を定め、最後にシヴァの御国を目指すよう勧める。さらにアヴィムクタ内郭として、ガンターカルナ湖、祖霊(pitṛ)を高めるダンダカータでのタルパナ、ピシャーチャ解放のためのピンダ、ラリター礼拝と夜の守り、マニカルニー/マニカルニケーシュヴァラとガンゲーシュヴァラが挙げられる。結末の伝承は、羅刹の事件と雄鶏の兆しによってアヴィムクタタラと「ヴィムクタ」の名を説明し、ここでディークシャを受け帰依する者は、ダルシャナ・沐浴・サンディヤーにより再生を免れ、ただちにカイヴァリヤを得ると確証する。

75 verses

Adhyaya 50

The Greatness of Kāśī (Avimukta): Pilgrimage Calendar, Yātrā-Dharma, and the Network of Śiva-Liṅgas

ヴァスがモーヒニーに教示する対話において、本章はまず聖地巡礼(tīrtha-yātrā)の「正しい時」(kāla)を定め、諸月を諸神の共同体に配して、カーマクンダ、ルドラーヴァーサ、プリヤーデーヴィー・クンダ、ラクシュミー・クンダ、マールカンデーヤ湖、コーティティールタ、カパーラ・モーチャナ、カーレーシュヴァラ等の名あるクンダ/ティールタで沐浴と礼拝を行うことを説く。次にヤートラー・ダルマとして、水壺を食物・花とともに施すこと、チャイトラ月の第三日(tṛtīyā)にガウリーを中心として功徳を積むこと、スヴァルガドヴァーラ(カーリカー)および高次の相(サンヴァルター/ラリター)を礼拝すること、シヴァの信徒たるブラーフマナに施食し、五ガウリーを招請することを示す。さらに障碍除去として、ヴィナーヤカへのダルシャナの順序(ドゥンディ、キラー、デーヴィヤー、ゴープレークシャー、ハスティ=ハスティン、シンドゥーリヤ)と供物(ヴァダヴァへのラッドゥ)を述べる。続いて方位ごとにクシェートラを護るチャンディカーを配し、アヴィムクタの河川と合流—トリスローター/マンダーキニー/マツヨーダリー、そしてガンガーの吉祥なる来臨—を語る。結びに、ナーデーシュヴァラ、カパーラモーチャナ、オームカーレーシュヴァラ(A-U-Mの神学)、パンチャーヤタナ、ゴープレークシャカ/ゴープレークシェーシュヴァラ、カピラー・フラダ(ヴリシャドヴァジャ)、バドラドーハ(ヒラニヤガルバ)、スヴァルロケーシュヴァラ/スヴァルリーラー、ヴィヤーグレーシュヴァラ/シャイレーシュヴァラ、サンガメーシュヴァラ、シュクレーシュヴァラ、さらにジャンブカ討伐に結びつくリンガなど、密なる聖地地誌を列挙し、いずれも罪滅とシヴァ界での解脱を約束すると説く。

70 verses

Adhyaya 51

Kāśī-māhātmya: Avimukta Gaṅgā and the Pañcanada Tīrtha

ヴァスがモーヒニーに教示する対話の中で、本章はアヴィムクタ(カーシー/ヴァーラーナシー)と北へ流れるガンガーの至高の救済力を宣言する。アヴィムクタでの行為は不滅の功徳を生み、罪ある者でさえ地獄を免れ得ると説き、解脱へ導くすべてのティールタがそこに円満に具わると断言する。儀礼の行程として、ガンガー沐浴(特にカルティカ月とマーガ月)、ヴィシュヴェーシュヴァラとしてのシヴァのダルシャナ、ダシャーシュヴァメーダやヴァラナー=アシーとジャーフナヴィの合流域などの聖所巡礼を示す。主要部はパンチャナダ(諸ユガにおいてダルマナダー/ドゥータパーパ/ビンドゥ・ティールタとも結び付く)を讃え、プラヤーガのマーガ月の功徳をも凌ぐとし、とりわけ祖霊のためのタルパナとシュラーダを伴うとき殊勝で、そこでのダーナは尽きないと説く。結びに、このマーハートミヤを聞く/誦する/読むことは祭祀とティールタに等しい功徳を与えると述べ、布施の倫理的分別を強調する—真のバクタとグル奉仕者への施しは称賛され、欺く者、グルを裏切る者、ブラーフマナや牛に敵対する者への施しは非難される。

49 verses

Adhyaya 52

Puruṣottama-māhātmya (The Greatness of Puruṣottama Kṣetra)

モーヒニーはカーシーの栄光を聞き、人生の目的を成就させるハリの聖地の偉大さをヴァスに請う。ヴァスはそのクシェートラがバーラタ・ヴァルシャのウトカラ、南海の岸辺にあり、砂に覆われた秘奥の解脱授与の地で、十ヨージャナに及ぶと説く。さらに「…の中で最勝」という多くの譬えによって、プルショーत्तマを諸ティールタの最高位として確立し、神々・聖仙・ヴェーダ・イティハーサ/プラーナ、河川・山岳・海洋が集う宇宙的合流点として描写する。本章はティールタラージャでの沐浴とプルショーत्तマのダルシャナの功徳を讃える。ついでヴァイシュナヴァの徳に満ちたインドラデュムナ王が、正しい礼拝地を求めてプルショーत्तマに至り、アシュヴァメーダを修し、サンカルシャナ(バララーマ)・クリシュナ・スバドラを建立安置し、パンチャ・ティールタを定め、日々の礼拝によりモークシャを得たことが語られる。第二の枠では、モーヒニーが古いヴァイシュナヴァ像について問うと、ヴァスはスメール山でラクシュミーがジャナールダナに問う場面を導入する。ヴィシュヌは海辺のニャグローダ樹、ケーシャヴァの祠、ヤマの讃歌を示し、ヤマは無欲の信徒にシュヴェータ・ローカを授けるインドラニーラ(青宝)の像を説くため、ヴィシュヌはそれを砂と蔓で覆い隠す。章末は次章以降の予告として、シュヴェータ・マーダヴァ、スヴァルガドヴァーラ、ナラシンハのダルシャナ、アナンタ=ヴァースデーヴァ、海水浴、タルパナ、パンチャ・ティールタの功徳と諸戒行を挙げる。

98 verses

Adhyaya 53

The Glory of Puruṣottama (Puruṣottama-māhātmya): Indradyumna’s Praise and the Origins of Sacred Images

モーヒニーはヴァスに、かつてインドラデュムナ王がいかにして聖なる像を造り、どの方法でマーダヴァを喜ばせたのかを問う。ヴァスは、建立後の王が礼拝にふさわしい御像を求めて不安に沈み、眠れず、王宮の歓楽にも心が向かなくなったと語る。経は、ヴィシュヌ像は石・木・金属で作り得るが、定められた相(ラクシャナ)を具える時にのみ正当となると説き、王はその如法の像を स्थापित する決意を固める。パンチャラートラの礼拝の後、王は長大な讃歌を捧げ、解脱者ヴァースデーヴァ、サンカルシャナ/プラデュムナ/アニルッダ、ナーラーヤナ、さらにナラシンハやヴァラーハ等のアヴァターラに帰敬する。王はハリの一体性があらゆる区別を超えることを宣言し、観想のための四臂の御姿を詳述する。讃歌はやがてシャラナーガティ(全託)へと高まり、輪廻の反復、業の束縛、地獄と天界、存在の不安定を語って、救済と生々世々の揺るがぬバクティを願い、懺悔しつつ礼拝の補助行を成就して結ぶ。

69 verses

Adhyaya 54

Kāruṇya-stotra Phalaśruti; Dream-Darśana of Vāsudeva; Manifestation and Pratiṣṭhā of Jagannātha, Balabhadra (Ananta), and Subhadrā

モーヒニーとヴァスの対話の中で本章はまず、プルショーत्तマへの優れた讃歌「カールニャ」の果報(phalaśruti)を説く。ジャガンナータを礼拝した後に日々讃嘆し、三度のサンディヤー(saṁdhyā)に誦するなら、四つのプルシャールタを得、殊にモークシャへ導かれるという。さらにダルマシャーストラ風の戒めとして、秘教と施与は無神論者・傲慢な者・恩知らず・バクティなき者に与えるべきでなく、布施は徳あるヴァイシュナヴァに向けよと述べる。物語は次いで王の不安と夢の啓示へ移り、ヴァースデーヴァが八臂の姿でガルダに乗って現れ、海辺の実を結ばぬ霊木を探して伐り、その木で神像を造れと命じる。ヴィシュヌとヴィシュヴァカルマンはバラモンに変装して来臨し、王の決意を讃え、吉相を備えた三尊—クリシュナ形のヴァースデーヴァ(ジャガンナータ)、白く鋤を持つアナンタ/バラバドラ、金色のスバドラ—の造立を監督する。王は長き統治・名声・至上の住処への到達などの恩寵を受け、インドラデュユスマサラスやピンダ供養(piṇḍa-dāna)の功徳といったティールタの由来も示される。最後に行列、安置(pratiṣṭhā)と吉時(muhūrta)の灌頂・奉献、豊かな布施と謝礼、正法の統治、そして出離を経て、ヴィシュヌの至上境地に至ることで章は結ばれる。

126 verses

Adhyaya 55

Glory of Puruṣottama: Pañcatīrthī Observance and Narasiṃha Worship

モーヒニーがヴァスに問う対話の中で、本章はまず聖なる時を定める。すなわちジェーシュタ月・白分(明半)・ドヴァーダシーであり、プルショーッタマへのダルシャナは、クルクシェートラでの長大なタパスを含むいかなる苛烈な苦行にも勝ると宣言する。ヴァスは「パンチャティールティー」を秩序ある巡礼として説く。まずマールカンデーヤ湖で三度の沐浴を行い、シヴァに向けた懺悔のマントラを誦し、デーヴァ・リシ・ピトリにタルパナを捧げる。次にシヴァの祠へ赴き、周回(プラダクシナ)、礼拝、そしてアゴーラ・マントラによって赦しを乞うことで、シヴァ・ローカと究竟の解脱が約束される。続いてカルパヴァタ(ニャグローダ)を周回し讃歌を捧げ、ガルダに敬礼してヴィシュヌ寺院に入り、サンカルシャナ(バララーマ)、スバドラ、最後にクリシュナ/プルショーッタマを十二音節のマントラで礼拝し、「ジャヤ」の勝利讃嘆と鮮明なディヤーナで結ぶ。本文は、ただダルシャナし礼拝するだけで、ヴェーダ・祭祀・布施・アーシュラマ・ダルマの総果に等しく、解脱と多世代の向上に至ると繰り返し強調する。さらに後半はヌリシンハに及び、永遠の臨在、ダルマ・アルタ・カーマ・モークシャの普遍の帰依処として讃え、簡素な供物、カヴァチャ/アグニシカーの誦持、断食、ホーマ、護身の作法、シッディ成就の手順など実践的サーダナを示し、憶念と礼拝による罪障消滅、危難の守護、所願成就を保証して終える。

134 verses

Adhyaya 56

Puruṣottama-kṣetra Māhātmya: Śveta-Mādhava & Matsya-Mādhava; Mārkaṇḍeya-tīrtha Mārjana and Bath Liturgy

ヴァスはモーヒニーに、Śrī Puruṣottama-kṣetra における最上の功徳をもつ tīrtha を説き、ただ拝観(darśana)するだけでも罪が滅すると断言する。ついで古典的ヴァイシュナヴァ(Vaiṣṇava)図像に基づき Śveta-Mādhava を讃え、Śvetagaṅgā での沐浴が Śvetadvīpa の成就に結びつくと語る。さらに Matsya-Mādhava に及び、原初の大海における魚(Matsya)アヴァターラの宇宙的働きを想起させ、ハリ(Hari)への専心の礼拝とヨーガによって、無敵・王権・そして究竟の解脱(mokṣa)という世俗と超越の果を約束する。章は māhātmya から作法へ移り、マールカンデーヤ湖での浄め(mārjana)と、特別な時刻(caturdaśī、Jyeṣṭhā の下の Jyeṣṭha pūrṇimā)を示す。願いを満たすバニヤン vaṭa への参詣と周回を定め、Aṣṭākṣarī の mantra-nyāsa、方位別の Viṣṇu-kavaca、自己同一化の観想、そして Tīrtharāja への沐浴祈願を授ける。沐浴後は Aghamarṣaṇa、清衣、prāṇāyāma、sandhyā と太陽神 Sūrya の礼拝、Gāyatrī 108回、svādhyāya、次第立った tarpaṇa を行い、pitṛ への供養は祖霊の安住する大地に kuśa を整えて捧げ、Deva と Pitṛ を招請すべきことを説く。

69 verses

Adhyaya 57

The Greatness of Puruṣottama (Aṣṭākṣarī Maṇḍala-Pūjā and Nyāsa)

ヴァス(Vasu)とモーヒニーの対話において、ヴァスはナーラーヤナ(Nārāyaṇa)への完全な礼拝次第を説く。四つの門をもつ方形の結界内に、八弁の蓮華マンダラを描くことを中心とする。まず浄め(ācamanā)と言葉の節制を行い、ついで真言観想による内浄を修す(心臓にkṣa/ra、頭頂の月輪にekāraを観じ)、甘露のごとき清めを経て「神身」を得るとされる。次に八字真言(aṣṭākṣarī)のニャーサを身体各所に施し、ヴァイシュナヴァの五支補助(pañcāṅga)、手の浄め(kara-śuddhi)、さらに四重顕現(caturvyūha:Vāsudeva・Saṅkarṣaṇa・Pradyumna・Aniruddha)が身に遍満する観想を加える。方位守護は、周囲にヴィシュヌの名を配し、日・月・火のマンダラを招来して確立する。神は蓮華の中心に安置され、八音・十二音の真言で供養され、またマツヤ、ナラシンハ、ヴァーマナのアヴァターラとしても請来される。続いて供養作法(upacāra)としてpādya、arghya、madhuparka、ācamanīya、snāna、vastra、gandha、upavīta、dīpa、dhūpa、naivedyaを捧げる。蓮弁にはvyūhaとアヴァターラを配し、法具と随伴(śaṅkha、cakra、gadā、śārṅga、剣、矢筒、ガルダGaruḍa)を置き、方位神(dikpāla)と宇宙の支えを招く。章末はジャパ回数(8/28/108)とムドラーの用法を示し、この礼拝を目にするだけでも不滅のヴィシュヌへと導かれる一方、正しいハリ(Hari)礼拝を知らねば最高の住処に至れないと結ぶ。

59 verses

Adhyaya 58

Description of the Origin of the Cosmic Egg (Brahmāṇḍa) and the Ocean as King of Tīrthas

ヴァシシュタの語りに枠づけられたモーヒニー–ヴァスの対話において、ヴァスはまずプルショーत्तマ・クシェートラ近くの海辺での作法を説く。すなわち、プルショーत्तマを礼拝し、合掌礼拝して、海を「諸河の主」として鎮め、沐浴し、岸でナーラーヤナを礼拝すること。ラーマ–クリシュナ–スバドラへの敬礼と、サーガラへの帰敬は、アシュヴァメーダに等しい大功徳をもたらし、罪を滅し、天界へ導き、ついにはヴァイシュナヴァのヨーガによって解脱へ至らせる。さらにヴァスは、食・サンクラーンティ・アヤナ・ヴィシュヴァ、ユガ/マンヴァンタラの始まり、ヴャティーパータ、アーシャーダ月とカールティカ月などの吉時を挙げ、ここでのブラーフマナへの布施とピンダ供養が千倍で尽きぬ果を生むと強調する。続いて海の至上性を確立し、あらゆるティールタ、河川、湖が海へ入ること、そこでの行為は不滅であること、そしてこの地に「九十九クロールのティールタ」があると説く。モーヒニーが海の塩辛さを問うと、ヴァスは七つの海が幼子であったこと、ラーディカーの呪い、そして末子をクシャーラ(塩性)と定めたクリシュナの勅命という神話を語る。章末は、グナと諸元素からヴィラート、ブラフマー、十四世界へ至るサーンキヤ宇宙論とブラフマーンダ生成を簡潔に述べ、「ブラフマーンダ起源の叙述(Brahmāṇḍotpatti-varṇana)」として結ぶ。

68 verses

Adhyaya 59

The Greatness of Puruṣottama (Goloka-tattva and Rādhā–Kṛṣṇa Upāsanā)

ヴァス(Vasu)がモーヒニー(Mohinī)に教示する対話において、クリシュナ(Kṛṣṇa)は汚れなき純粋意識と神聖光明として定義され、ゴーローカ(Goloka)に永住し、内なる光として、また顕現・非顕現の両相におけるブラフマン(Brahman)として在ると説かれる(1–5)。本章はゴーローカ/ヴリンダーヴァナ(Vṛndāvana)の聖なる生態—森、牛、ゴーパ、樹木、鳥—を描き、宇宙の融解の時には認識が覆われると述べる(3–5)。ついで光輝く顕現が起こり、若々しく黒色の、笛を携えた二臂の主が現れ、胸にはラーダー(Rādhā)を戴く。ラーダーは黄金に輝き、プラクリティ(prakṛti)を超え、主と不二であると讃えられる(6–9)。究極原因は言語を超えると宣言され、シヴァ(Śiva)は主として禅定により近づくが、四臂の啓示的形相は信愛者に繰り返し見られる。さらにラクシュミー(Lakṣmī)、サナトクマーラ(Sanatkumāra)、ヴィシュヴァクセーナ(Viṣvaksena)、ナーラーヤナ(Nārāyaṇa)、ブラフマー(Brahmā)、ダルマの子を経てナーラダ(Nārada)へ至る伝承系譜が挙げられる(10–21)。神聖なリーラーと女神の同一性(ラーダー=ラクシュミー/サラスヴァティー/サーヴィトリー、ハリ=ドゥルガー)、シャクティ(Śakti)の顕現(サティー/パールヴァティー)を論じ、最後は「ネーティ・ネーティ」で結び、実践のサーダナーとして、帰依の類別、啓示されたマントラの式、そして行い—師への敬礼、ヴァイシュナヴァへの尊敬、不断の想念と祭礼の遵守—を示す(22–48)。

49 verses

Adhyaya 60

Abhiṣeka (Consecratory Bathing Rite)

Puruṣottama-māhātmya におけるヴァス(Vasu)とモーヒニー(Mohinī)の対話の中で、本章はアシュヴァメーダ Aśvamedha の肢体から生じたとされる聖地 tīrtha、インドラデュムナ湖 Indradyumna への入水作法を説く。清浄、ācamana、ハリ(Hari)想念、恭敬の起立、そして tīrtha のマントラを直に誦して始める。沐浴後は devas/ṛṣis/pitṛs への分量を定めた水供、言葉の節制、祖霊への piṇḍa 供養、そしてプルショッタマ Puruṣottama への礼拝を行い、アシュヴァメーダに等しい功徳、祖先の救済、天界の享楽、ついには解脱を約束する。さらにジェーシュタ月 Jyeṣṭha の白分(Daśamī から約一週間)の祭期を示し、河川と大海がプルショッタマに顕現し、神の darśana により一切の行為が不滅となると説く。Daśaharā、Ekādaśī 断食、Pañcadaśī の darśana、特別 darśana(Vaiśākha Tṛtīyā の白檀塗布、Phālguna のブランコ)も強調される。続いて全インドの tīrtha・河川・山岳の目録が挙げられ、いかなる川も Kṛṣṇa-darśana に及ばないと結ぶ。結末では壮麗な abhiṣeka の मंडप(パヴィリオン)と儀礼が描かれ、音楽とヴェーダ誦唱、devas・ṛṣis・宇宙的時間尺度の臨席のもと、ガンガー Gaṅgā の水と花で天上よりクリシュナ Kṛṣṇa を沐浴させ、章末のコロフォンで締めくくられる。

77 verses

Adhyaya 61

Description of the Fruits of Pilgrimage to Puruṣottama-kṣetra

ヴァスがモーヒニー/スプラバー/ナンディニーを教導する対話の中で、本章はまず神聖な讃歌(stuti)を示す。諸天と天界の者たちは、ラーマとスバドラ―と共にあるクリシュナに「ジャヤ」を繰り返し唱え、宇宙の主、マツヤ・クールマ・ヴァラーハ等のアヴァターラ、そしてチャクラ・シャṅカ・ガダーの保持者として讃える。続いて、功徳の等価を説くダルマの論理が立てられ、台座に坐す三尊へのただのダルシャナ(darśana)だけで、大施(牛・乙女・黄金を伴う土地)、客人歓待、牡牛の放逐、広範なティールタ巡礼に等しい果報が得られるとする。とりわけ残余のアビシェーカ水が重視され、不妊・病・グラハ的障り・ラークシャサ憑きなどの苦患に振りかければ清浄となり所願が成就する。沐浴後にクリシュナを拝し、特に南面の動きの折に見ることは重罪を滅し、宇宙的周回や名高い沐浴地に等しい果を与える。さらにヴラタ・カルパとして、ジェーシュタ月白分エーカーダシーの沐浴、スーリヤ・ジャパ、寺院でのアビシェーカ(ギー、乳、蜜水/白檀水)、パンチョーパチャーラ、灯明供(十二灯を含む)、ナイヴェーディヤ、真言誦持、礼拝、グル・プージャー、マンダパ/マンダラの設営、ヴァースデーヴァ物語とキールタナによる徹夜(ジャーガラナ)を説く。翌ドヴァーダシーには十二人のブラーフマナを牛・金・器物・供食と送別儀礼で敬う。約束される果(phala)は、カルパの期間に応じて多くの神界へ昇り、やがて法にかなう王として再来し、最後にヴァイシュナヴァ・ヨーガとカイヴァリヤを得ることである。

104 verses

Adhyaya 62

Tīrtha-vidhi (Procedure for Holy Places) — Prayāgarāja-māhātmya

ヴァスとモーヒニーの対話において、モーヒニーはプルショーッタマ(Puruṣottama)の偉大さを聞いた後、プラヤーガ(Prayāga)の功徳と、ティールタ(tīrtha)巡礼の正しい作法を求める。ヴァスはまず総論として、tīrtha-yātrā は多くのヤジュニャ(yajña)に勝る果報をもたらすが、布施(dāna)、自制、そして信と真心の bhāva を伴ってこそ成就すると説く。さらに、欲・怒り・貪りの制御、忍耐、知足、贈り物を受け取ることへの嫌悪という内的資格を示し、ガンガー(Gaṅgā)に近いだけでは魚のように無益で、バクティなくしては実りがないと戒める。続いて、旅立ち前のガネーシャ(Gaṇeśa)礼拝、デーヴァ(Deva)・祖霊(Pitṛ)・ブラーフマナ・サードゥへの敬礼、ティールタでの śrāddha/tarpaṇa の方法(piṇḍa の材料と不浄回避)など、旅と儀礼の規定を述べる。プラヤーガとガヤー(Gayā)には、喪中の剃髪、kārpaṭī の姿、施物を受けないこと等の特別規則がある。奢りを伴う乗り物での移動を批判し、移動手段ごとの罪(doṣa)と功徳の段階も示す。最後に、剃髪(muṇḍana と kṣaura)の技術的区別、例外地(クルクシェートラ、ヴィシャーラー、ヴィラジャー、ガヤー)およびガンガー特有の戒めを論じ、ティールタの神聖が水・地・火の霊力と聖仙(ṛṣi)の承認に根ざすことを明らかにする。

56 verses

Adhyaya 63

Prayaga-mahatmya (Glory of Prayaga and the Magha Bath at Triveni)

ヴァスがモーヒニーに教示する対話として構成された本章は、ヴェーダにより認証されたプラヤーガ(Prayāga)の偉大さを宣言し、太陽がマカラ(Makara)に入る時期のマーガ月の行(観)と、スナーナ(聖なる沐浴)を中心に説く。まずガンガーに関わるティールタの功徳を、入水の地点・合流点・流れの方向によって序列化し、稀有なるヴェーニー/トリヴェーニーの合流(ガンガー=ヤムナー、伝統によりサラスヴァティーを含意)へと至らせる。マーガには神々、聖仙、シッダ、アプサラス、祖霊(ピトリ)が集うという宇宙的参与が語られる。沐浴の作法は簡潔に、マントラと沈黙を示し、場所(家での温湯、池、河、偉大な合流)と季節による功徳の倍率を述べ、特にマカラ期のマーガが果報を甚大に増すとする。プラヤーガのクシェートラ・マンダラ(五ヨージャナ)、付随するティールタ(Pratiṣṭhāna、Haṃsapratapana、Daśāśvamedhika、Ṛṇamocanaka、Agni-tīrtha、Naraka-tīrtha)、および倫理的修行(梵行、非暴力、真実、タルパナ)が概説される。布施、とりわけシュロートリヤへの牛施(go-dāna)や、剃髪などの儀礼が勧められる一方、決定的なのは内なるバクティであると断言する。結びに、プラヤーガでのマーガ沐浴による強い解脱(mokṣa)の約束、さらには臨終にプラヤーガを想起するだけでも救いとなることが説かれる。

175 verses

Adhyaya 64

The Determination of the Extent of the Sacred Field and Related Matters (Kurukṣetra Māhātmya)

ヴァスとモーヒニーの対話において、モーヒニーは諸ティールタの中でのクルクシェートラの卓越を詳しく問う。ヴァスは、クルクシェートラを至上の功徳を具えたクシェートラと定め、そこでの沐浴は罪を洗い、ただその名徳を聞くだけでも解脱の利益が得られると説く。さらにこの地を、サラスヴァティー川とドリシャドヴァティー川の間にあるブラフマーヴァルタ内に位置づけ、解脱(モークシャ)を助ける四つの手段として、ブラフマ知(brahma-jñāna)、ガヤーでのシュラーダ(Gayā-śrāddha)、ゴーシャーラーでの死、そしてクルクシェートラへの居住を挙げる。章はまた、ブラフマー・サラス、ラーマ・フラダ、ラーマ・ティールタの出現を語り、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ、パラシュラーマ、マールカンデーヤのタパスと結びつける。サラスヴァティーの流れ、クル族による開墾、そしてクルクシェートラ/シャマンタ・パンチャカが五ヨージャナに及ぶことも示される。ヴァスは、沐浴・断食・布施(dāna)・火供(homa)・誦持(japa)・神々への礼拝(deva-pūjā)の不滅の果報を列挙し、そこで命終する者は再び戻らぬと断言する。最後に、土地の守護ヤクシャであるスチャンドラを鎮め礼拝すべきこと、またヴィシュヌが罪人を退けクシェートラを守るため護りの存在を配していることが述べられる。

33 verses

Adhyaya 65

Description of the Pilgrimage to the Sacred Tīrthas (Kurukṣetra-yātrā-krama)

モーヒニーは、クルクシェートラにおける吉祥なる森々・河川・全巡礼路を、正しい順序で語るよう求める。ヴァスは整然たる tīrtha-yātrā-vidhi を示し、七つの中心聖林(Kāmyaka、Aditivana、Vyāsa-vana、Phalakīvana、Sūryavana、Madhuvana、Sītāvana)を挙げ、季節に応じて功徳を授ける諸河—触れ、また飲むことで福徳が生ずる—を列挙する。行程は門守の夜叉ラントゥカへの礼拝から始まり、Vimala/Vimaleśvara、Pāriplava、Pṛthivī-tīrtha、Dakṣa-āśrama(Dakṣeśvara)、Śālakinī、Nāga-tīrtha、Pañcanada、Koṭitīrtha/Koṭīśvara、Aśvitīrtha、Varāha-tīrtha、Soma-tīrtha、さらに多くの Śiva-liṅga の霊場へと進み、snāna(沐浴)、pūjā(供養)、dāna(布施)、ブラーフマナへの施食を統合する。本章は tīrtha の行を、Agniṣṭoma・Aśvamedha・Rājasūya・Soma-yajña などの大ヴェーダ祭と同等と繰り返し説き、Caitra の遵守、Kārtika の kanyā-dāna、Pitṛpakṣa/Mahālaya の śrāddha、日月食の施与など暦法の規定も加える。結語として、クルクシェートラに勝る tīrtha はなく、Sthāṇu-tīrtha が解脱の頂として特に讃えられる。phala-śruti は、この māhātmya を聞き誦することが罪を滅し、求道者を mokṣa へ導くと宣言する。

136 verses

Adhyaya 66

The Greatness of Haridvāra (Gaṅgādvāra-māhātmya)

ヴァス―モーヒニーの対話において、モーヒニーはクルクシェートラの偉大さを聞いた後、功徳を授けるガンガードヴァーラ(ハリドワール)のマーハートミャを求める。ヴァスは、バギーラタに従って女神ガンガー(ラクーナンダーとして)が降下したことを語り、この地がダクシャ・プラジャーパティの祭祀によって聖別されたと示す。物語はダクシャ・ヤジュニャの危機へ移り、シヴァが排除され、サティーが敬われず身を捨てたため、その場は沐浴(スナーナ)と供水(タルパナ)に霊験あらたかなティールタとなる。ヴィーラバドラが祭祀を破壊するが、後にブラフマーの嘆願により回復される。さらに本章は、ハリドワールの諸支ティールタと果報—ハリ・ティールタ(ハリ・パーダ)、トリガンガー、カナカラ、ジャフヌ・ティールタ、コーティティールタ/コーティーシャ、サプタガンガーと七仙(サプタリシ)のアーシュラマ、アーヴァルタ、カピラー湖、ナーガラージャ・ティールタ、ラリタカ、シャンタヌのティールタ、ビーマスタラ—を列挙し、それぞれを誓願・布施・約束された成就と結びつける。特に、クンバに関わる太陽の転換期や稀有なヨーガ(ヴァールナ、マハー・ヴァールナカ等)での沐浴、ブラーフマナへの供養、そしてハリドワールにおける想念・誦唱(ガンガー・サハスラナーマ)・プラーナ聴聞の効験、さらに書写されたマーハートミャを保持することの護符的利益が強調される。

57 verses

Adhyaya 67

Badarikāśrama-māhātmya: The Five Śilās, Tīrthas, and the Path of Liberation

ヴァスとモーヒニーの対話において、バダリーはハリの聖域(kṣetra)として讃えられ、ナラとナーラーヤナが世の安寧のために久遠の苦行(tapas)を保つ地であると説かれる。章は主要なティールタ(tīrtha)を列挙する。アグニ/ヴァフニ・ティールタ(罪を焼く沐浴)、ナーラダの岩(ナーラーディ)とナーラダ・クンダ(浄化)、そしてパンチャガンガー(tarpana により梵天界から不還となる)。続いてガルダの苦行とヴィシュヌの恩寵が語られ、想起するだけでも功徳を生むヴァイナテーヤ・シラー(Vainateya-śilā)が स्थापितされる。さらにヴァーラーヒーおよびナーラシンハのシラーは化身(avatāra)の事績と結びつき、悪趣(durgati)からの護りとヴァイシュナヴァの住処への到達を約束する。第五の石ナラ–ナーラーヤナはユガの法(yuga-dharma)として解説され、古いユガでは顕現したが、カリ・ユガではナーラダ・クンダに安置された石像礼拝によって近づけ、季節の礼拝周期(ヴァイシャーカ/カールティカ)も示される。加えてカパーラモーチャナ等の多くのティールタ(Prabhāsa/Puṣkara/Gayā/Naimiṣa の流れ、ソーマクンダ、ドヴァーダシャーディティヤ、チャトゥḥスロータ、サプタパダ、ウルヴァシー・クンダ、メール、ローカパーラ、ダンデープシュカリニー合流、ダルマ・クシェートラ、ブラフマーヴァルタ等)が巡礼の網を成す。結びの果報説(phalaśruti)は、バダリーでの誦読・滞在・バクティにより無罪、繁栄、夭死の回避、そしてハリの直観(darśana)が得られると告げる。

83 verses

Adhyaya 68

Kāmodākhyāna (Glory of the Kāmodā Sacred Place)

モーヒニーが問い、ヴァスが答える対話の中で、本章はガンガー河畔のティールタ「カーモダー」を讃える。ヴァスはこのクシェートラを乳海攪拌に結びつけ、そこから四人の「乙女の宝」—ラマー(ラクシュミー)、ヴァールニー、カーモダー、ヴァラー—が現れたと説く。ヴァールニーはヴィシュヌの許しのもとアスラに取られたが、ラクシュミーはヴィシュヌの妃として堅固に定まったという。諸神は未来の目的を予見し、ヴィシュヌの命により同名の都で女神カーモダーを礼拝する。女神はサマーディに没し、ヴィシュヌとの合一を希求し、ここでは真心のバクティによってヴィシュヌに到達できるとされる。カーモダーの歓喜の涙はガンガーに落ち、芳香ある黄色の「カーモダ」蓮と結びつけられる。正しい供物による礼拝は所願成就を与え、誤った礼拝は苦を招く。聖地はガンガードヴァーラの上方にあると示され、十二音節のマントラを一年住してジャパすること(直観のダルシャナには十二年)を勧め、チャイトラ月のドヴァーダシーと沐浴が功徳と願望成就の因であると強調する。信心をもってこの物語を聴けば罪は滅する。

26 verses

Adhyaya 69

Kāmākṣā-māhātmya (Glory of Kāmākṣā) with Siddhanātha Account

ヴァスとモーヒニーの対話において、先に罪を滅する物語を聞いたモーヒニーは、カーマークシャー礼拝の果報を求める。ヴァスは女神カーマークシャーが東方の大海の海浜に鎮まると示し、ヴラタに似た行法—節制した食、正しい供養、そして一夜の滞在によってダルシャナに至る—を説く。女神は恐るべき相で現れ、不動の堅固さこそシッディ成就の基準であり、恐怖と動揺は障碍となる。続いて、パールヴァティーの子シッダナータが語られる。彼はカリ・ユガでは通常隠れているが、カリの重大な段階の後に顕現し、幻惑と策謀で人々を支配してカリの三重の流れを強めるという。信者がシッデーシャを念じ、カーマークシャーを一年間絶えず礼拝すれば、夢の霊験と成功、さらには世界遍歴の恩寵さえ得る。物語はマツヤナータへ転じ、海に捨てられ魚に呑まれた子が、シヴァの最高原理(十二音節のマントラに結びつく)の教えにより完成し、ウマーにより「シッダたちの主」として迎えられる。結びに、このマハートミヤを聴聞する浄化力が讃えられ、望む成就と天界が約束される。

28 verses

Adhyaya 70

Prabhāsa-kṣetra: Circuit of Tīrthas and Shrines Leading to Bhukti and Mokṣa

モーヒニーはヴァスに、プラバーサ(Prabhāsa)の偉大さを語るよう請う。ヴァスは、プラバーサを中央の壇を備えた広大な聖地巡礼の環とし、アルカスタラ(Arkasthala)に最上の霊験をもつ微小ティールタがあり、沐浴してソーマナータ(Somanātha)を礼拝すれば解脱に至ると宣言する。ついで巡礼の次第を示し、無数のリンガ(まずシッデーシュヴァラ Siddheśvara)への礼拝、アグニ・ティールタとカパルッディーシャ(Kaparddīśa)、ケーダレーシャ(Kedāreśa)、多くのシヴァ派聖所、さらに惑星/アーディティヤの全周礼(火星・木星・月・金星・土星・ラーフ・ケートゥ)を説く。道中にはデーヴィー崇拝、ガネーシャ/ヴィナーヤカの儀礼、ヴァイシュナヴァの要所(アーディ・ナーラーヤナ、ナガラーディティヤ近くでのクリシュナ・サーユジュヤ)、シュラーダとピンダ供養(ガヤーに等しい功徳の主張)、井戸・河川・合流点・クンダの名目録が密に挙げられ、明示された解脱ティールタへと至る。章末はプラバーサの至上性を断言し、プラバーサ・マーハートミヤを聞く/誦する、または書として保持することが護りとなり恐れを払うと結ぶ。

96 verses

Adhyaya 71

Puṣkara-Māhātmya (The Glory of Puṣkara)

対話の中でモーヒニーは、プシュカロドバヴァ(プシュカラ)の偉大さを求める。ヴァスは、プシュカラを常に願いを成就させる聖域(kṣetra)として讃え、諸大 देव(神々)が住し、シヴァドゥーティーにより守護されると説く。さらに、ジェーシュタ月に滞在し沐浴する功徳は殊勝であり、一度の沐浴(snāna)や、ただ拝観するだけのダルシャナ(darśana)でさえ、盛大なヴェーダ祭祀に等しいと述べる。続いて、プシュカラ内部のティールタ(tīrtha)の地勢—峰々、流れ、三つの湖(長者・中者・幼者)、サラスヴァティーに関わる渡し、そしてナンダー、コーティティールタ、アガスティヤのアーシュラマ、サプタリシのアーシュラマ、マヌの地、ガンガーの源(Gaṅgā-udgama)、ヴィシュヌパダ、ナーガ・ティールタ、ピシャーチャ・ティールタ、シヴァドゥーティー湖、アーカーシャ・プシュカラ等の名所を列挙する。各ティールタには推奨の布施(dāna:牛、土地、黄金、食物、穀物、胡麻)と、罪滅・長寿・繁栄・聖仙との同住(salokya)・ブラフマローカ/ヴィシュヌローカ/ルドラローカ・天界・解脱(mokṣa)などの果報が約束される。さらにカールティカ月の沐浴について特定のナクシャトラ・ヨーガの暦法規定を示し、最後に、想起・称名・マーハートミヤを聴聞するだけでもプシュカラの功徳が得られると結ぶ。

Adhyaya 72

An Account of the Power of Sage Gautama’s Austerities (Gautamāśrama-māhātmya)

ヴァスとモーヒニーの対話において、モーヒニーはプシュカラの功徳を聞いた後、聖仙ガウタマのアーシュラマ(修行林)の偉大さを求めて問う。ヴァスは、ガウタマのタパス(苦行)の力により、そのアーシュラマが罪を滅し苦悩を鎮める帰依処となり、長きにわたる誓戒とバクティの実践がシヴァの住処へ導くと語る。十二年の大旱魃の折、飢えた仙人たちが集い食を乞うと、ガウタマは慈悲に動かされ扶養を約し、ガンガーを念じて禅定に入る。するとガンガーが大地より現れてゴーダーヴァリーとなり、タパスの霊験によって稲がその日のうちに播かれ収穫され、飢饉が終わるまで仙人たちを養った。喜んだシヴァ(トリヤンバカ)は顕現し、ガウタマに不退転の信愛を授け、近くの山に常住すると約して、その山は以後トリヤンバカとして名高くなる。章は、ゴーダーヴァリー(ガンガー)での沐浴、正しい供物によるトリヤンバカ礼拝、祖霊(ピトリ)供養、そしてパンチャヴァティーでの誓願の功徳を説き、さらにトレーター・ユガにラーマが住したことで同地が一層聖別されたと述べ、読誦・聴聞は功徳と所願成就をもたらすと結ぶ。

Adhyaya 73

Vedapāda-stava (Hymn in Vedic Quarters): Śiva’s Tāṇḍava at Puṇḍarīkapura

ヴァスとモーヒニーの対話において、モーヒニーはゴーダーヴァリー河とパンチャヴァティー近辺のトリヤンバカの偉大さ、そしてマハーデーヴァが舞ったプṇḍarīkapura(プンダリーカプラ)の起源を求める。ヴァスは、ヴィヤーサの弟子ジャイミニが弟子たちと来訪し、都のようなティールタの景観を見て沐浴し、タルパナと日々の儀礼を行い、土でシヴァ・リンガを作ってウパチャーラによって礼拝したと語る。満悦したシヴァはウマー、ガネーシャ、スカンダとともに顕現し、ジャイミニの願いにより妙なる舞踊の姿となってプラマタたちを招き、灰・三日月・ガンガー・第三の眼・蛇・皮衣・宇宙の震えなどの相を伴う恍惚のターンダヴァを演じる。ジャイミニはヴェーダの響きを帯びた長大な讃歌で、シヴァの宇宙的主権と五つのパンチャブラフマ形(イーシャーナ、タトプルシャ、アゴーラ/ゴーラ、ヴァーマデーヴァ、サディヨージャータ)を称え、輪廻(サンサーラ)からの帰依と、長寿・健康・学識・繁栄、そして生々世々の奉仕を願う。功徳章(ファラシュルティ)は、誦持により勝利・知性・財富・子息・シヴァ界/サーユジュヤが得られ、ターンダヴァ・ティールタは常の功徳を超え、沐浴で解脱し、祖霊供養(ピトリ・シュラッダ)を助け、布施(ダーナ)を不滅とすると説く。

Adhyaya 74

The Greatness of Gokarṇa (Gokarṇa-māhātmya)

ヴァスとモーヒニーの対話において、モーヒニーはプṇḍarīkapuraの話を聞いた後、ゴーカルナ(Gokarṇa)の偉大さを求める。ヴァスは西方の大海辺にあるゴーカルナを説き、ただ一度見るだけで解脱が得られ、無数のティールタ(tīrtha)、クシェートラ(kṣetra)、聖なる林苑に満ち、神々・アスラ・人間が住まう広大な聖域であると言う。やがてサガラの子らが掘り進める間に海が増水し、ゴーカルナの仙人たちは移住を余儀なくされ、聖地の回復を願う。彼らはマヘーンドラ山のパラシュラーマ(Paraśurāma)を訪ね、静謐なアーシュラマ(āśrama)で歓待を受け、海を退けてクシェートラを取り戻してほしいと請う。パラシュラーマは海岸でヴァルナ(Varuṇa)を召すが、ヴァルナが驕りにより遅れると、バールガヴァの武器(Bhārgava)を発して水を乾かす。恐れたヴァルナは帰伏し、海は退いてゴーカルナが顕現する。パラシュラーマはシャンカラ(Śaṅkara)を「ゴーカルナ」として礼拝する。結びの功徳説(phalaśruti)では、想起・拝観・居住・そこでの儀礼は功徳を大いに増し、そこで死すれば天界を得、シヴァの臨在が罪を滅すると説かれる。

Adhyaya 75

The Greatness of Lakṣmaṇācala, with the Narrative of Rāma and Lakṣmaṇa

モーヒニーとヴァスの対話において、モーヒニーは、罪を滅するゴーカルナの偉大さを聞いた後、ラクシュマナーチャラ(Lakṣmaṇācala)のマーハートミャ(聖地の功徳)を求める。ヴァスは四重のヴューハによりラクシュマナの神性を説き、ラーマはナーラーヤナ、バラタはプラデュムナ、シャトルグナはアニルッダ、そしてラクシュマナはサンカルシャナ(シヴァの吉祥性と結び付く)であると明かす。続いて本章は『ラーマーヤナ』を簡略に叙述する――ヴィシュヴァーミトラの祭祀、ターḍカー/スバーフの討伐、天授の武器の獲得、ミティラーでのシヴァ弓破りと婚姻、パラシュラーマの屈服、追放、シーター誘拐、スグリーヴァとの盟約、ハヌマーンの使節、ランカーへの橋、インドラジット/ラーヴァナの討滅、シーターの火の試練、帰還と戴冠、シーターの遺棄、クシャとラヴァおよびアシュヴァメーダの背景、そしてドゥルヴァーサの事件によりラクシュマナが自己犠牲の離去を遂げ、ラーマがハリの住処へ昇るに至る。ラクシュマナは山上で苦行を修し不朽の聖威を स्थापितし、ラクシュマナーチャラは至上の功徳地となる――そこでのダルシャナは人生の成就とハリのダーマへの到達を授け、布施と儀礼の果は尽きず、誦読・聴聞はラーマに愛される因となる。とりわけアガスティヤの許可が、解脱へ導くこの聖地の観想への門として強調される。

Adhyaya 76

Setu-māhātmya (The Glory of Setu and the Fruits of its Tīrthas)

ヴァスとモーヒニーの対話において、モーヒニーは先の『ラーマーヤナ』誦読が罪を滅し功徳を増すと讃え、ついでセートゥ(Setu)の至上の栄光を求める。ヴァスは、セートゥをただダルシャナ(darśana、拝観)するだけで輪廻(サンサーラ)の海から解放されると説く。そこには主ラーメーシュヴァラ(Rāmeśvara)が住し、戒めを保ち心を整えて礼拝する者は最高の境地に至るという。さらに本章はセートゥの諸ティールタ—チャクラ・ティールタ、ターラ・ティールタ、シータークンダ、マンガラ・ティールタ、アムリタ・ヴァーピー、ブラフマ・クンダ、ラクシュマナ・ティールタ、ジャター・ティールタ、ハヌマット・クンダ、アガスティヤ・ティールタ、ラーマ・クンダ、ラクシュミー・ティールタ、アグニ・ティールタ、シヴァ・ティールタ、シャンクハ・ティールタ、コーティティールタ、サーディヤームリタ、サルヴァティールタ、ダヌシュコーティ、クシーラ・クンダ、カピ・ティールタ、ガーヤトリーとサラスヴァティーのティールタ、そしてリナモーチャナ—を列挙し、それぞれの果報(不死、ブラフマローカ、シヴァローカ、ヨーガの到達、健康、勝利、子孫/財、繁栄/美、束縛と負債からの解放、悪しき再生の回避)を示す。結びに、このセートゥ・ティールタ・マーハートミヤを読む、または聴聞することが諸罪を滅すると述べる。

Adhyaya 77

नर्मदातीर्थमाहात्म्ये तीर्थसंग्रहः (The Greatness of the Sacred Fords of the Narmadā)

セートゥの偉大さを聞いた後、モーヒニーはナルマダー(レーヴァー)沿いの巡礼聖地を、簡潔でありながら網羅的に語るよう求める。ヴァスは、両岸にわたり約四百のティールタが「群」として配され、岸ごとの数や、レーヴァーが大海に合流する地点が特に重んじられると述べる。続いて章は、功徳(パラ)の体系的な地図へ移り、オームカーラの聖域は半径二クロ―シャに及び「三・五クロール」の功徳を蔵すること、カピラー・サンガマやアショーカ林(アショーカ・ヴァナ)などの大合流点と林苑が計り知れぬティールタ同等の果報をもつことを示す。さらに、名のある諸所が順に挙げられ、百倍・千倍・一万倍など段階的な増益が説かれる。加えて、108などの正典的な定数をもつ合流点、著名なシヴァ派リンガの霊廟、そして「スヴァルナ・ティールタ」も列挙される。結びに、ティールタを伝統別(シヴァ派、ヴィシュヌ派、シャークタ、マートリカー、ブラフマー関連、クシェートラパーラ)に分類し、ナルマダーの功徳はただ拝見するだけで得られ、このマーハートミヤを聞き、誦し、あるいは書写すれば罪障が浄められ、家を災厄から守り、繁栄を授けると説く。

Adhyaya 78

The Glory of Avantikā (Avanti-māhātmya)

モーヒニーはヴァスに、アヴァンティ(アヴァンティカー/ウッジャイニー)の聖なる起源と偉大さ、そして諸天に崇敬されるマハーカーラの栄光を説くよう求める。ヴァスはマハーカーラヴァナを中心とするティールタの目録を示し、そこを比類なきクシェートラであり、マハーカーラが住まう苦行(タパス)の座であると描く。本章は多くの名あるティールタ、クンダ、サローヴァラ、リンガを列挙し、沐浴と礼拝を定め、その功徳として、重罪の浄化(カパーラ・モーチャナ)、争いの勝利(カラカレーシャ)、繁栄と健康、恐れの消滅、事業成就、天界の獲得、さらにはシヴァまたはヴィシュヌの世界への到達を説く。さらに巡礼の作法として、内陣に入る前にヴィグネーシャ、バイラヴァ、ウマーを礼拝すべきことを述べ、マハーカーラの森には数え切れぬリンガがあると断言し、出会ったいかなるリンガをも供養すればシヴァに愛されると強調する。結びに、アヴァンティの偉大さを聞くこと自体が罪を滅すると宣言する。

Adhyaya 79

The Description of the Greatness of Mathurā (Mathurā-māhātmya)

ヴァスとモーヒニーの対話において、本章は、アヴァンティーの偉大さを聞いたモーヒニーが、続いてマトゥラーの栄光を請い願うところから始まる。ヴァスは、マトゥラーは主の顕現する聖域であり、シュリー・クリシュナの御降誕、ゴークラにおける諸リ―ラー、そしてカンサ配下の魔を討ち滅ぼしたことによって清められたと説く。さらに十二の林苑(マドゥヴァナ、ターラーハヴァヤ、クムダ、ヴィマラ湖を伴うカーミヤヴァナ、バフラ、バドラヴァナ、カーディラ、マハーヴァナ、ローハジャンガ、ビルヴァーラニヤ、バーンディーラ、そして最上のヴリンダーヴァナ)を列挙し、それぞれでの信愛(バクティ)による沐浴と礼拝の功徳を示す。マトゥラー・マンダラは二十ヨージャナの巡礼圏として描かれ、そこでのいかなる沐浴もヴィシュヌへのバクティを生じさせるという。多くの主要ティールタが挙げられ、結びにケーシャヴァの主権、四重の神的顕現(チャトゥルヴューは)と、マトゥラー・マーハートミャを聴聞・誦読する救済力が讃えられる。

Adhyaya 80

The Greatness of Śrī Vṛndāvana (Śrī-vṛndāvana-māhātmya)

モーヒニーはヴァスに、ヴリンダーヴァナの秘められた霊威を問う。ヴァスは秘伝の系譜を語り、ナーラダがヴリンダー・デーヴィーより、ゴーピーケーシャ(ゴーピーたちの主としてのクリシュナ)の密教的教示を授かったと伝える。本章はヴリンダーラニヤをマトゥラーの聖地地理(プシュパサラス、カウスーマ・サラス、ヤムナー河畔、ゴーピーケーシャラ、サキシュタラ近くのゴーヴァルダナ)に位置づけ、ナーラダがヴリンダーのアーシュラマへ到来する次第を述べる。マーダヴィーの導きにより、ナーラダは湖の定められた方角で沐浴し、変容のヴィジョンを得る—ナーラディーとなり、宝玉の宮殿に入り、ゴーピーケーシュヴァラを拝見/邂逅し、のちに帰還して男身を回復する。ヴリンダーはクブジャー/サンケータに関わる内奥の秘義を明かし、稀有のマントラ修法(ダグダ・シャトカルナガ)を師資相承の秘として授け、唯一の実在を説く不二の宣言で結ぶ。後半はヴリンダーヴァナのティールタと功徳(ブラフマー・クンダ、ゴーヴィンダ・クンダ、タットヴァ・プラカーシャの渡し、アリシュタ・クンダ、シュリー・クンダ、ルドラ/カーマ・クンダ等)を列挙し、カリ・ユガにおける帰依処として讃え、ゴーヴァルダナの聖別譚とともに、ヴリンダーヴァナが最高の巡礼地でありバクティ・ダルマの最勝の道場であることを示して終える。

Adhyaya 81

The Exposition of the Deeds of Vasu (Vasu’s Vrindavan Boon and the Future Deeds of Hari)

ヴァスはモーヒニーに、ティールタ巡礼の果報を求めよと諭し、その出来事をブラフマーに報告する。ブラフマーはヴァスを讃え、恩寵(ブーン)を授ける。ヴァスはヴリンダーラニヤ(ヴリンダーヴァン)に住むことを選び、長き苦行を修して、ついにヴィシュヌが顕現し同じ恩寵を確証する。ヴリンダーヴァンに安住し、その奥義を知りたいヴァスはナーラダに会い、バクティをいよいよ深めるダルマを問う。ナーラダは、シヴァを通して受けた予言—シヴァがゴーローカでスラビーから聞いたもの—を語る。すなわち、地の重荷を除くためのハリの降臨、クリシュナのヴラジャのリーラー(プータナー討伐、カーリヤ制伏、その他の魔の討滅)、マトゥラーでの出来事(カンサの死)、ドヴァーラカー期の婚姻と戦い、そしてヤーダヴァ族の最終的な退去とハリの本住処への帰還である。ナーラダはヴィーナーを奏で讃歌を歌い去り、ヴァスはヴラジャに留まり、クリシュナの神聖な遊戯を拝見せんと切望する。

Adhyaya 82

The Fruits of Hearing the Mahāpurāṇas; Mohinī’s Tīrtha-Yātrā; Mohinī Ekādaśī Discipline

賢者たちは、スータがクリシュナの御業を語ることを讃え、ヴァスがブラフマローカへ赴いた後、ブラフマーの娘モーヒニーが何をしたのかと問う。スータは、ヴァスの定めたヴィディ(作法)に寸分違わず従って行われたモーヒニーのティールタ・ヤートラーを述べる。すなわち、ガンガーをはじめ諸河での沐浴、まずヴィシュヌを起点とする神々への礼拝、ブラーフマナへのダーナ、さらにガヤーでのピンダ供養、カーシー、プルショーッタマ、ドヴァーラカー、クルクシェートラ、ガンガードヴァーラ、バダリーアーシュラマ(ナラ=ナーラーヤナ)、アヨーディヤー、アマラカンタカ、オーンカーラ、トリヤンバケーシュヴァラ、プシュカラ、マトゥラーでの礼拝、内なるパリクラマーと牛の施与である。続いて章はヴラタ・カルパへ転じ、エーカーダシーにおける旅と時刻の正しい規定、「モーヒニー・ヴェーダ(障り)」の回避、そしてドヴァーダシーにヴィシュヌを礼拝すればヴァイクンタに至るとの約束を説く。「モーヒニー」の名はブラフマーの制定と結び付けられ、ラクシュミーとの競合の趣向も語られるが、ヴィシュヌへのバクティは侵し得ないと断言し(ルクマーングダの例)、最後に広いファラ・シュルティとして『ナーラディーヤ・プラーナ』の権威、諸派を包む普遍性、あらゆるヴァルナへの利益、そして不二のブラフマンを(シヴァ/プラダーナ/プルシャ/カルマ等)多様な語彙で示す教理を讃える。