Venkatachala Mahatmya
Vishnu Khanda40 Adhyayas

Venkatachala Mahatmya

Venkatachala Mahatmya

This section is anchored in the sacred mountain geography of Veṅkaṭācala (Tirumala–Veṅkaṭeśvara hill complex in South India), presenting the landscape as a theologically charged tīrtha where divine presence is narrated through temple-centric myth, ritual instruction, and merit discourse. The setting repeatedly ties mountain topography to Vaiṣṇava iconography (Śrīnivāsa/Janārdana) and to the protective, stabilizing symbolism of Varāha in relation to Bhūdevī (Dharaṇī).

Adhyayas in Venkatachala Mahatmya

40 chapters to explore.

Adhyaya 1

Adhyaya 1

Veṅkaṭācalamāhātmya (Adhyāya 1): Nāradasya Varāhadarśanam, Dharaṇī–Varāha-saṃvādaḥ, Tīrtha-māhātmya-nirdeśaḥ

第1章は、プラーナに典型的な舞台であるナイミシャーラニヤ(Naimiṣāraṇya)から始まる。シャウナカ(Śaunaka)ら聖仙は世界護持のため十二年のサトラ(satra)を修し、語り部スータ(Ugraśravas)に『スカンダ・プラーナ』の説話を請う。スータはかつてヴィヤーサ(Vyāsa)に問うたことを想起し、ヴィヤーサはさらに古い因縁を語る。すなわちナーラダ(Nārada)が須弥山(Sumeru)に登り、宇宙のピッパラ樹(pippala)の下に輝く天上の楼閣を見、ついに猪面のヴァラーハ(Varāha)として顕れたプルショーッタマ(Puruṣottama)が蓮華座に坐し、仙人と天衆に囲まれる御姿をダルシャナ(darśana)する。 大地女神ダラニー(Dharaṇī)は供物を携え眷属とともに来臨し、ヴァラーハに抱擁されて、己を支える主要な山々について問う。主は大山脈を列挙したのち、河川と湖沼に寄り添う南方の聖域をとりわけ示し、ナーラーヤナードリ/シュリーヴェンカターチャラ(Nārāyaṇādri/Śrīveṅkaṭācala)と、スヴァルナムカリー(Suvarṇamukharī)、カマラーカ湖(Kamalākha-sarovar)、寺院域など周辺の霊地を明かす。 さらに本章はティールタ(tīrtha)を序列づけ、スヴァーミプシュカリニー(Svāmipuṣkariṇī)を最勝として讃え、その内に無数のティールタが宿ること(「六十六クロール」という定型伝承を含む)を説く。また六つの主要ティールタを定め、クマーラダーリカー(Kumāradhārikā)、トゥンバ(Tuṃba)、アーカーシャガンガー(Ākāśagaṅgā)、パーンダヴァ(Pāṇḍava)、パーパナーシャナ(Pāpanāśana)、デーヴァティールタ(Devatīrtha)における時刻に応じた沐浴功徳を示す。結びにダラニーは主を讃歌し、主は彼女とともにヴリシャバーチャラ/シェーシャーチャラ(Vṛṣabhācala/Śeṣācala)へ移り、信をもって聴聞・誦読する者に位と所願成就を約する果報説(phalaśruti)が述べられる。

Adhyaya 2

Adhyaya 2

Śrīvarāha-mantrārādhanavidhiḥ (The Ritual Procedure for Worship through the Śrīvarāha Mantra)

本章は伝承された対話として展開する。スータは、前の宇宙周期(ヴァイヴァスヴァタ・マンヴァンタラ、クリタ・ユガ)に起きた古譚を語る。大地女神ダラニーはナーラーヤナードリにおいてヴァラーハに近づき、神を歓喜させ、繁栄・王権のしるし・子孫、そして戒律を守る修行者には究竟として「神の御足」への到達をもたらす特定のマントラを請い願う。ヴァラーハは「至上の秘呪」を明かし、信心深く自制ある者にのみ慎重に伝授すべきだと強調する。 示される真言は “oṃ namaḥ śrīvarāhāya dharaṇyuddharaṇāya ca”。章はマントラ・シャーストラの要目として、ṛṣi(サンカルシャナ)、devatā(ヴァラーハ)、chandas(パンクティ)、bīja(śrī-bīja)を挙げる。正師より受けた者は四ラク(四十万)のジャパを行い、続いて蜂蜜とギーを加えたパヤサ(乳粥)でホーマを修すべしと説く。さらに観想(dhyāna)では、結晶のごとく輝き、蓮紅の眼、猪の面でありながら柔和、四臂にチャクラとシャंख、無畏(abhaya)の印と蓮華を持ち、赤金の衣と荘厳をまとい、シェーシャ等の宇宙的支えの相を備える姿が描かれる。 結語として功徳(phala)が明示され、日々108回の誦持により所願が成就し、ついには解脱に至るという。さらに例証として、ダルマと名づくマヌが神の境地を得たこと、呪詛の後にインドラが天界を回復したこと、聖仙たちが高き帰趣を得たこと、アナンタがシュヴェータドヴィーパでのジャパにより「大地の支え」となったことが語られる。最後にダラニーは、シュリーニヴァーサがいかにしてヴェンカタに来臨し、久しく住まうのかを問う。

Adhyaya 3

Adhyaya 3

अगस्त्यप्रार्थनया भगवतः सर्वजनदृग्गोचरत्ववर्णनम्; तथा पद्मावत्युत्पत्तिः वसुदानजन्म च (Agastya’s Petition for Divine Visibility; Origins of Padmāvatī and Birth of Vasudāna)

第3章は対話形式で、シュリーヴァラーハ(Śrīvarāha)が大地女神ダラニー(Dharaṇī)に往昔の出来事を語る。前半では、ヴェーンカターチャラ(Veṅkaṭācala)のスヴァーミプシュカリニー(Svāmipuṣkariṇī)近くに住まうシュリーニヴァーサ/ハリ(Śrīnिवāsa/Harī)が、崇高なるヴィマーナ(vimāna)に坐し、劫の終わりまで凡人には見えないとされながらも、神聖な定めによって礼拝の対象となることが説かれる。ダラニーは「不可視の神に対して、いかにして公の礼拝が成り立つのか」と神学・儀礼上の疑問を呈する。 これに対しシュリーヴァラーハは、聖仙アガスティヤ(Agastya)が十二年にわたり篤く供養(ārādhana)し、主が一切の有身の衆生に姿を現されるよう祈願したことを語る。主はヴィマーナの卓越性を保ちつつ、万人に見える恩寵を与える。後半は王統と由来譚へ移り、ミトラヴァルマー(Mitravarmā)王の興起と、アーカーシャラージャ(Ākāśarāja)へ至る系譜が述べられる。さらに、儀礼の鋤入れの際に大地より現れたパドマーヴァティー(Padmāvatī)が娘として迎えられ、王妃ダラニーに託される。続いてダラニーは吉兆のうちに懐妊し、ヴァスダーナ(Vasudāna)を出産、武芸と諸学の修養が要約され、王者の徳と正統、そして土地の聖史が確立される。

Adhyaya 4

Adhyaya 4

Pad्मिनी/Pad्मावती-Lakṣaṇa and Śrīnिवास Encounter in the Puṣpāṭavī (Chapter 4)

第4章は重層的な伝承として展開する。スータが大地女神ダラニーの問いを伝え、ヴァラーハは、天空王アーカーシャラージャが地より生まれた娘に「パドミニー」と名づけた由来を語って答える。ついで物語は、パドマーヴァティーの庭園/森の住まいの近くへ移り、聖仙ナーラダが不意に来訪する。 パドマーヴァティーの願いにより、ナーラダは吉祥の身体相(lakṣaṇa)を細やかに列挙し、彼女の姿は「ヴィシュヌにふさわしい(Viṣṇu-yogya)」、すなわちラクシュミーに比すべきものだと解釈する。ナーラダが姿を消した後、パドミニー/パドマーヴァティーは侍女たちとともにプシュパータヴィーへ入り、春の花を摘む。花々の名が数え上げられ、森は儀礼と美が交わる聖なる場として描かれる。 そこへ脅威となる象が現れて恐れが広がるが、馬に乗り弓を携え、光り輝く図像的な人物が到来して場面は転じる。彼はシュリーニヴァーサ/ヴェンカタードリの住者であり、この土地の語り口では太陽族の「クリシュナ」と名乗る。女性たちは探し物の「イーハームリガ」を見ていないと告げ、王の守護する森への侵入を咎め、身元を問う。彼は狩りに来たと言い、やがてパドマーヴァティーを見て心惹かれたと認める。侍女たちが王罰を警告すると、彼は従者とともに山へと素早く去っていく。

Adhyaya 5

Adhyaya 5

पद्मावतीदर्शन-प्रसङ्गः तथा बकुलमालिकाया यात्रामार्ग-निर्देशः (Padmāvatī Encounter and Bakulamālikā’s Route Instructions)

本章は、神聖なる来臨の場面から、内奥に燃える恋慕へと物語の焦点を移す。シュリーニヴァーサは宝玉で飾られた楼閣に入り、パドマーヴァティーの美を想起して心を奪われ、モーハ(恋により惑う迷妄)の恍惚に沈む。そこへバクラムーリカーが、丹念に整えた供物を携えて近づき、身体と心に現れる徴を見て鋭い問いを投げかけ、その状態を読み解く。 シュリーニヴァーサは、パドマーヴァティーを太古の神話時代へ結びつける由来譚を語る。すなわちヴェーダヴァティー/シーターの因縁と、後の時代に結ばれるという延期された約束であり、今の恋がダルマにかなう誓願と神意の連続であることを証し立てる。続いて章は聖なる行路の指示へ転じ、バクラムーリカーに、ヌリシンハ洞(Nṛsiṃha-guhā)、アガスティヤの庵、スヴァルナムカリー河畔のアガスティエーシャ・リンガを経て、名を持つ森や湖を通り、ナーラーヤナプリー/アーカーシャラージャの都へ至る道を教える。樹木・鳥・獣の豊かな列挙は、神学を大地の景観に結びつける文字の地図となる。終わりに、バクラムーリカーは旅立ち、パドマーヴァティーの侍女たちに出会って、次の対話が始まる。

Adhyaya 6

Adhyaya 6

Padmāvatī’s Vision, Royal Divination, and Vaiṣṇava Marks of Devotion (Chapter 6)

第6章は、宮廷の物語と神学的教示とを織り合わせて語る。アーカーシャラージャの奥向きの女たちは、王女とともに花を摘んでいた折、樹下に驚くべき पुरुषを見たという。彼はインドラニーラのごとく黒く、黄金の装身具と武器で飾られていたが、たちまち姿を消し、パドマーヴァティーは気絶した。王はダイヴァジュニャに占わせ、星位は概ね吉であるものの、王女は非凡な男の幻視により心を乱され、ついにはその者と結ばれること、さらに益ある助言を携えた使者の女が来ることを告げられる。対処として、ブラーフマナ主導のアビシェーカをアガスティエーシャ・リンガに施すよう命じられる。 続いて、シュリー・ヴェーンカタードリから来たバクラマーリカーが登場し、宮殿へ迎え入れられる。ダラニーはプーリンディニー(部族の女)に問い、彼女は真実を述べる。パドマーヴァティーの病は恋から生じ、原因は神ご自身—ヴァイクンタのハリ—であり、彼はスヴァーミプシュカリニーのほとり、ヴェーンカタードリを遊行する。ハリはラリターを仲介として遣わし、結合は成就するという。 章の結びでは、パドマーヴァティーが信者の相(bhakta-lakṣaṇa)を説く。外的標識として、シャंखとチャक्रの印、ウールドヴァ・プンダラ、十二の名の保持(nāma-dhāraṇa)を挙げ、内的修養として、ヴェーダ誦習、真実、悪意なき心、禁欲、慈悲を示す。さらに、護摩と熱した印章によって五つの武器(pañcāyudha:法螺貝・円盤・弓/矢・棍棒・剣)を刻印する作法が詳述され、倫理に律せられ、儀礼の印を帯びた者こそヴァイシュナヴァであると定義される。最後に女たちはアガスティエーシャ礼拝を成し遂げ、ブラーフマナに食と布施を捧げて敬う。

Adhyaya 7

Adhyaya 7

बकुलमालिकादूत्यं पद्मावतीपरिणयनिश्चयश्च (Bakula-mālikā’s Embassy and the Determination of Padmāvatī’s Marriage)

本章は、宮廷から寺院へと至る外交的な展開を描き、パドマーヴァティーとシュリーニヴァーサの婚姻譚を、儀礼と行政の枠組みの中で正式に確定させる。冒頭、王妃ダラニーは来訪した神の侍女バクラ・マーリカーの身元と目的を問い、使者の信憑性を確かめるための作法を整える。 バクラ・マーリカーは、ヴェンカタードリにおけるシュリーニヴァーサの行動、森での諸々の出会い、そしてスヴァーミティールタでのシャンカ王との会見を語る。そこでは苦行の修習と祠の建立が、正当なバクティ(信愛)の道として示される。さらにシュリーニヴァーサは、ヴィシュヴァクセーナへの礼拝やスヴァーミプシュカリニーでの沐浴など、道程に即した指示を与え、聖地の地理と許可された実践とを結びつける。 続いて王権の決定へと移り、アーカーシャラージャは大臣たちと祭司・占星の権威ブリハスパティに諮り、婚期(ウッタラパールグニー;ヴァイシャーカ月)を定める。ヴィシュヴァカルマンの都の荘厳、インドラの花雨、諸神の奉献が続き、吉祥の秩序が協働する儀礼世界として描かれる。 最後に、バクラ・マーリカーと鸚鵡の使者(シュカ)がシュリーニヴァーサのもとへ戻り、パドマーヴァティーの願いを伝える。主は花輪を送って受諾のしるしを示し、神の来臨を迎えるための儀式準備と王宮の歓待作法が整えられていく。

Adhyaya 8

Adhyaya 8

Śrīnिवासस्य लक्ष्म्यादिकृत-परिणयालंकारः — The Bridal Adornment and Marriage Procession of Śrīnिवास

本章は聖なる猪身のシュリーヴァラーハが語る、婚礼儀礼の厳粛な次第である。シュリーニヴァーサはラクシュミーを招き、婚姻の準備を統べるよう命じる。Śruti・Smṛti・Dhṛti・Śānti・Hrī・Kīrtiなど、ヴェーダの範疇と徳が人格化されて来臨し、香油、衣、宝飾、鏡、麝香、王権の印章といった儀礼具を携え、ダルマに則る荘厳の目録を成す。 ラクシュミーは天界とティールタの霊水を集めた香水で塗油と沐浴の儀を行い、神を装い飾る。シュリーニヴァーサはūrdhva-puṇḍraを施し、ガルダに乗る。ナーラーヤナプリー/アーカーシャラージャの都へ向かう歓喜の行列が描かれ、デーヴァ、聖仙、ガンダルヴァ、アプサラスが随従し、吉祥の誦唱が響く。 パドマーヴァティーとの婚礼は、三度の花鬘交換、吉祥の家への入場、そしてmaṅgalya-sūtraの結びとlājā-homaを含む定式の婚儀をもって成就する。続いて贈与(prābhṛta)が穀物、ギー、乳製品、果実、布帛、黄金、宝石、家畜、馬、象、従者に至るまで詳述され、王の寛施がダルマの供養として示される。シュリーニヴァーサはアーカーシャラージャに、揺るがぬ信愛と御足に定まる心という恩寵を授け、諸神は各々の住処へ帰り、神はスヴァーミプシュカリニーの近くに住して礼拝を受け続ける。

Adhyaya 9

Adhyaya 9

अथ वसुनिषादवृत्तान्तः—रंगदासकैंकर्यं—तोण्डमान्नृपकथा—पद्मसरोवरमाहात्म्यम् (Vasu the Niṣāda, Raṅgadāsa’s service, Toṇḍamān’s encounter, and the Padma-saras glory)

本章は対話に枠づけられたティールタ(聖地)神学の複合章である。大地女神ダラニーが「カリ・ユガにおいても、丘における神の臨在は人々に見えるのか」と問うと、ヴァラーハは範例譚を語って答える。第一に、森に住むニシャーダのヴァスはプルショーッタマに篤く帰依し、煮たシャーマカの穀粒を蜂蜜と和えて、シュリーとブーを伴うヴィシュヌに供える。蜜を採って戻ったヴァスは、子が供物を食したのを盗みと誤解して剣を上げるが、ヴィシュヌが樹より顕現して剣を取り、幼子の純粋な信愛こそ殊に愛でられると諭し、スヴァーミ・サラス/スヴァーミプシュカリニーにおける臨在の継続を確証する。 第二に、パンディヤ地方から来た帰依者ランガダーサは、ヴァラーハ祠、スヴァルナムカリー、カーマラ―キャサラス、チャクラティールタを巡礼し、スヴァーミプシュカリニー近くでシュリーニヴァーサを拝する。彼は庭園と井戸を整え、花の供えを日々の奉仕(セーヴァ)とするが、ガンダルヴァの水遊びの見世物に心を奪われて務めを欠き、恥じ入る。神は彼を慰め、過失は内なる志によって量られると示し、王者のごとき繁栄と変わらぬ信愛、そして最終の解脱を予告する。 第三に、物語はソーマクーラの王トーンダマーンへ移る。ヴェンカタードリ近くで狩りをするうち諸ティールタを経て女神レーヌカーに至り、五色の鸚鵡が「シュリーニヴァーサ」と鳴いて彼を森の守り手ニシャーダへ導く。ニシャーダは王をスヴァーミプシュカリニー近くの秘された神へ案内し、二人は礼拝してシャーマカと蜂蜜の供物を分かち合う。帰還後、レーヌカーは「デーヴァデーヴァの恩寵」として、征服されぬ王国と王の名を冠する都という政治的加護を授ける。 最後にシュカはパドマ・サラス(蓮華の湖)の功徳を説く。ドゥルヴァーサの呪いによりラクシュミー(パドマー/ラーマー)は蓮満つる湖で苦行し、諸神は正式の讃歌(ストゥティ)で称える。ラクシュミーは、ビルヴァ葉をもって礼拝しこの讃歌を唱えつつ沐浴する者に、失われた位の回復、繁栄、そしてモークシャを授け、のちガルダに乗るヴィシュヌとともにヴァイクンタへ帰還する。

Adhyaya 10

Adhyaya 10

Toṇḍamān’s Accession; Varāha Revelation at the Valmīka; Bilamārga Guidance; Aṣṭhi-saras Revival; Bhīma the Potter’s Liberation; Phalaśruti

第10章は、王権の正統性、聖地の発見、そしてヴェンカターチャラ(Veṅkaṭācala)における祭祀の制度化を織り合わせて語る。まずトォṇḍamānの即位が述べられ、パドマサラス(Padmasaras)が浄化と繁栄を授ける池として讃えられる。すなわち、キールタナ(kīrtana:讃歌)、スマラナ(smaraṇa:想念)、スナーナ(snānā:沐浴)によって功徳が得られる。並行して、森の民の長ヴァス(Vasu)は光輝くヴァラーハ(Varāha)に遭い、神がヴァルミーカ(valmīka:蟻塚)へ入るのを見る。神託は、牛乳で蟻塚を洗い、石の台座上の御像を持ち上げて認知し、ヴァイカーナサ(Vaikhānasa)の専門家により礼拝を確立せよと命じる。 トォṇḍamānは夢の啓示によってビラマールガ(bilamārga:地下の通路)を知らされ、パッラヴァ(pallava)の痕跡など神の徴に従って進み、プラーカーラ(prākāra:囲いの壁)と門を築いて守護を始める。また、タマリンドとチャンパカ(campaka)の聖樹を、神の臨在を示す永遠の標として保護するよう諭される。続いて道徳・行政の試練として、妊娠中のブラーフマニー(brāhmaṇī)を一時保護したことが怠慢により死を招くが、シュリーニヴァーサ(Śrīnivāsa)がアシュティ・サラス(Aṣṭhi-saras)での償いの儀礼を示し、そこは「非時の死を退ける」(apamṛtyu-nivāraṇa)湖として、沐浴により彼女は蘇生する。 さらに、クルヴァグラーマ(Kurvagrāma)の陶工ビーーマ(Bhīma)の素朴な供物が主に受け入れられ、王の訪問ののち夫妻はヴァイクンタ(Vaikuṇṭha)に至ることが語られる。結末ではトォṇḍamānが継承を整え、苦行を修し、神の御前に拝し、サールーピヤ(sā-rūpya)とヴィシュヌパダ(Viṣṇupada)を得る。最後のファラシュルティ(phalaśruti)は、信をもって聴聞・誦読する者に高き果報を約束する。

Adhyaya 11

Adhyaya 11

स्वामिपुष्करिणी-स्नानमाहात्म्यं तथा काश्यपोपाख्यानम् (Glory of bathing in Swāmipuṣkariṇī and the Kāśyapa episode)

第11章は、スワーミプシュカリニー(Swāmipuṣkariṇī)を罪垢を浄めるティールタとして讃え、倫理的な挿話によってその力を示す。スータ(Sūta)は、カーシュヤパ(Kāśyapa)がスワーミプシュカリニーで沐浴したことで、重大な道徳的汚れさえ滅すると語る。リシたちは、カーシュヤパの過失の原因と突然の解放の理由を問うため、スータはパリークシット王(Parīkṣit)に始まる関連譚を説き起こす。 狩猟中のパリークシットは沈黙する聖者に出会い、返答がないことに怒って死んだ蛇をその肩に載せる。聖者の子シュリンギー(Śṛṅgī)は、七日以内に王はタクシャカ(Takṣaka)の咬みで死ぬと呪詛する。厳重な防護にもかかわらず、タクシャカは欺計を用い、婆羅門のような者たちに紛れ、果実の中に虫として潜んで呪いを成就させる。 毒を制するマントラ医であるカーシュヤパは王を救えるはずだったが、途中でタクシャカに遮られ、力比べと財の誘いによって引き返させられる。のちに彼は王を守れなかったとして公に非難される。疑いを解き償いを求めてシャーカリヤ(Śākalya)仙を訪ねると、仙は「救う力がありながら、毒に苦しむ命を助けないこと」こそ重い罪であり、社会的な不名誉を招くと断ずる。償いとして、ヴェンカタードリ(Veṅkaṭādri)へ巡礼し、誓願(saṅkalpa)を立ててスワーミプシュカリニーで沐浴し、まずヴァラーハスヴァーミン(Varāhasvāmin)を礼拝し、次にシュリーニヴァーサ(Śrīnivāsa)を拝するよう示される。ダルシャナ(darśana)と規律ある行によって、カーシュヤパの健康・地位・名誉は回復する。章末の果報讃(phalaśruti)は、信をもって聴聞する者に高き果報を約し、浄化がバクティ、志、そして聖地と結びつくことを明らかにする。

Adhyaya 12

Adhyaya 12

स्वामिपुष्करिणी-स्नानात् नरकनिस्तारः (Deliverance from Naraka through Bathing in Swāmi Puṣkariṇī)

本章では、聖仙たちがスータに、ただ想起するだけでも解脱をもたらすと説かれる「シュリー・スワーミ・プシュカリニー/スワーミ・ティールタ」の偉大さ(vaibhava)を問う。スータは、これを讃え、語り伝え、あるいはそこで沐浴する者は、二十八のナラカ(地獄界)に落ちることがないと断言する。 続いて、地獄界が名を挙げて列挙され、いくつかの倫理的罪過がそれぞれの刑罰の行き先と結びつけられる。他人の財や縁を奪うこと、父母や学者への憎しみ、ヴェーダの道への背反、衆生を乱し害する行為、性の不正、反ダルマの宗派的攪乱、行いの不浄、動物への暴力、儀礼における偽善などである。各例の後には、スワーミ・ティールタでの沐浴がその堕落を防ぐという保証が、繰り返しの句のように添えられる。 結びのファラシュルティは、この聖地の功徳が大供犠や大施与に等しく、重罪さえ即座に浄め、智慧・離欲・心の明澄といった徳を生じさせると説く。また、讃嘆を誇張と退けることを戒め、不信を霊的危難として示す。最後に、見ること、沐浴すること、讃えること、触れること、礼拝することが、死の恐れからの守護と、bhukti–mukti(現世の安寧と解脱)を得るための全き手段であると広く宣言される。

Adhyaya 13

Adhyaya 13

धर्मगुप्तचरित्रवर्णनम् | Dharma-gupta’s Episode and the Efficacy of Svāmipuṣkariṇī

スータはスヴァーミティールタの偉大さをさらに語り、ソーマ王統のナンダ王の子、ダルマグプタ王の事績を述べる。ナンダは政務を子に託して森へ退き苦行に入る。ダルマグプタは政道と祭祀、そしてブラーフマナへの施与によって正しく治め、掠奪のない秩序ある国を保った。 狩猟の折、恐ろしい森で夜に遭う。夕のサンディヤーを礼拝しガーヤトリーを誦して木上に身を寄せると、獅子に追われた熊も登って来る。熊は夜番の盟約を提案し、獅子は裏切りをそそのかすが、熊は信義を破る罪(ヴィシュヴァーサ・ガータ)が他の罪よりも重いと戒める。のちに王が眠る熊を落としてしまうと、熊は変化自在の仙人ディヤーナカーシュタであると明かし、王に狂乱の呪いを下す。さらに獅子はヤクシャのバドラナーマで、かつてクベーラの臣であったがゴータマの呪いで獅子身となった者であり、ディヤーナカーシュタとの対話により解放されてアラカーへ帰還する。 大臣たちは王の狂気をナンダに報告し、ナンダは仙人ジャイミニに相談する。ジャイミニは、スヴァルナムカリー河の近く、ヴェンカタ山のスヴァーミプシュカリニーで王子を沐浴させよと示し、沐浴と同時に狂気は消え去る。父子はヴェンカテーシャ/シュリーニヴァーサを礼拝し、ダルマグプタは施しを行って再びダルマに則り統治する。章末は功徳の宣言で締めくくられ、スヴァーミプシュカリニーへの入水は狂乱や癲癇様の病、悪しきグラハの障りを解き、またどの水辺でも沐浴前に「スヴァーミティールタム」を三度唱えればブラフマンの住処に至るという。さらにこの物語を聞くだけでも重罪が滅すると説かれる。

Adhyaya 14

Adhyaya 14

सुमत्याख्यद्विजवृत्तान्तः — The Account of the Brahmin Sumati and Purification at Svāmi-puṣkariṇī

第14章は、スータがナイミシャーラニヤの聖仙たちに語る教訓的なイティハーサであり、スヴァーミティールタ/スヴァーミ・プシュカリニーの浄罪の威力を明らかにする。聖仙たちは、スーマティの家系、徳の堕落、そして救済の仕組みを問う。スータは、スーマティがマハーラーシュトラの学識と信仰に富む婆羅門ヤジュニャデーヴァの子であると述べる。 しかしスーマティは法(ダルマ)を踏み外し、父と貞節な妻を捨て、妖艶なキラーティ(部族の女)に溺れ、盗みと酩酊に沈み、ついには強盗のために変装して婆羅門を殺害する。これはマハーパータカ(大罪)と断じられ、その報いは恐るべきブラフマハティヤーとして擬人化され、彼を家まで追い詰め、ヤジュニャデーヴァに「堕落者(パティタ)を匿えば一家全体が危うい」と迫る。ここに罪の重さと社会・祭儀上の排除が強調される。 危機のただ中に、ルドラの分身とされる聖者ドゥルヴァーサスが来訪し、ヤジュニャデーヴァは贖罪の道を請う。ドゥルヴァーサスは通常の贖罪はほとんど不可能だとしつつ、場所に依る救済として、ヴェンカタードリの最上のティールタ、スヴァーミ・プシュカリニーでの沐浴を授ける。父が子を連れて行き沐浴すると、虚空の声が即時の清浄を告げ、そのティールタを「罪の樹を断つ斧」と讃える。結びに、これを聞き誦する者に高き功徳が約束される(ファラシュルティ)。

Adhyaya 15

Adhyaya 15

कृष्णतीर्थमाहात्म्य (Kṛṣṇatīrtha Māhātmya / The Glory of Kṛṣṇatīrtha)

本章は、シュリー・スータが、功徳きわめて大なるヴェンカタ山にあるクṛṣṇatīrtha(クリシュナ聖地)のマーハートミャ(霊威)を説き、罪を滅する場であると讃えるところから始まる。教えは道徳の回復を強調し、kṛtaghna(恩知らず)と呼ばれる者や、父母・師に不敬な者でさえ、ここで沐浴すれば清浄になると語られる。 続いて由来譚が述べられる。賢者クリシュナ(ラーマクリシュナの枠物語の中で)が、ヴェンカターチャラにて激しいタパスを不動のまま多年にわたり修し、蟻塚(valmīka)が身を覆い、豪雨と雷鳴が襲っても揺るがなかった。やがて稲妻が蟻塚の頂を砕くと、ヴィシュヌ/シュリーニヴァーサが、シャṅカ(法螺貝)・チャクラ(円盤)・ガダー(棍棒)を携え、ガルダに乗り、森の花輪を飾って顕現する。 主はその苦行を嘉し、神の顕現日に結びつく最上の沐浴時を宣言する。すなわち太陽がマカラ(山羊座)にある時、プシュヤ星宿に合致するパウルナマーシー(満月)の日である。その日にクリシュナ聖地で沐浴すれば罪より解放され、目的が成就し、神々・人々・方位の守護者たちが浄化のため集うという。さらにこのティールタは賢者の名によって名高くなると告げられる。章末の果報讃(phalaśruti)は、この物語を聞き誦する者がヴィシュヌ界(Viṣṇu-loka)に至ると説く。

Adhyaya 16

Adhyaya 16

Jaladāna-praśaṃsā at Veṅkaṭādri (Praise of Water-Giving at Veṅkaṭācala)

本章は、ヴェンカタードリ(Veṅkaṭādri)におけるジャラダーナ(jaladāna=水を施し備えること)を、業の果がいっそう増大する決定的な倫理行為として讃える。シュリー・スータは、とりわけ渇く者に水を与えない怠りが、不利な再生を招き得ると説く。 続いて教訓的なイティハーサが語られる。イクシュヴァーク族の王ヘマーṅガ(Hemāṅga)は、牛や財宝の布施、祭儀の後援などには寛大でありながら、水は「容易に得られる」ゆえ功徳が少ないと理屈づけて施水を拒む。さらに、受けるにふさわしい器を見分ける pātra-viveka を欠き、不適切な者を尊び、学識と戒律を備えたブラーフマナを顧みない。 その報いとして彼は卑下した生を重ね、ついにはミティラーで家ヤモリ(gṛhagodhikā)となる。賢者シュルタデーヴァ(Śrutadeva)が来訪し、土地の王に礼遇されると、足洗いの水(pādodaka)が飛び散り、その滴がヤモリに触れて jāti-smaraṇa(前生想起)が起こる。ヘマーṅガは過ちを告白し、シュルタデーヴァは因果を明かす—ヴェンカタードリでの施水の欠如と、誤った施与である。賢者は功徳の回向と水の触れによる浄化によって彼を畜生の身から解放し、天界への上昇、王としての再生を経て、ついにヴィシュヌ・サーユジュヤ(Viṣṇu-sāyujya=ヴィシュヌとの最も近い合一)へ導く。章末は、ヴェンカタードリの浄化力と、ジャラダーナがヴィシュヌ界(Viṣṇuloka)をもたらす行であることを重ねて確証する。

Adhyaya 17

Adhyaya 17

Śrīveṅkaṭācala-kṣetrādi-varṇanam (Description of Veṅkaṭācala and its Sacred Preeminence)

本章は、スータによるヴェーンカタードリ/ヴェーンカターチャラ(Veṅkaṭādri/Veṅkaṭācala)の偉大さの説示をさらに進める。地上と宇宙に遍在するあらゆるティールタ(tīrtha)がヴェーンカタ山中に具わると宣言し、この地を聖域の全体を映す小宇宙として確立する。神は古典的ヴァイシュナヴァの相として、シャṅカとチャクラ(śaṅkha-cakra)を持ち、黄衣(pītāmbara)をまとい、カウストゥバ宝珠(Kaustubha)を戴く姿で描かれ、護持の力とヴェーダに根ざす清浄が強調される。 物語は、年ごとの奉仕に広い地域が参加する様子を示し、バードラパダ月(Bhādrapada)の祭礼において参詣と儀礼参加が浄化に結びつくことを語る。重要な制度的要素としてブラフモーツァヴァ(Brahmotsava)が挙げられ、ブラフマーがカンヤー月(Kanyā)に旗揚げ(dhvaja-ārohaṇa)の儀を定めたとされる。年次の大祭は、人々、デーヴァ、ガンダルヴァ、シッダ、そして学識あるドヴィジャ(dvija)が集う場として描かれる。 ガンガーが諸河の最上であり、ヴィシュヌが諸神の最上であるというような至上の比較を重ね、ヴェーンカタは諸クシェートラ(kṣetra)の中の「ウッタモーत्तマ(uttamottama)」と繰り返し讃えられる。結びの果報説(phalaśruti)は、信愛をもって聴聞する者がヴィシュヌの界において高き位を得ると称える。さらに、シュリー・スヴァーミー・プシュカリニー(Śrīsvāmi-puṣkariṇī)を主要ティールタとして示し、その傍らにラクシュミー(Lakṣmī)に抱かれて坐し、恩寵を授ける主の臨在が語られる。

Adhyaya 18

Adhyaya 18

Śrīveṅkaṭeśvaravaibhava-varṇanam (Theological Description of the Glory of Veṅkaṭeśvara)

第18章は、スータによるシュリーニヴァーサ/ヴェンカテーシュヴァラの救済力に関する神学的講説として構成される。ここでは聖地に根差した救済論が示され、ヴェンカテーシュヴァラを一度ダールシャナ(darśana:聖なる拝観)するだけで、モークシャ(解脱)とヴィシュヌ・サーユジュヤ(Viṣṇu-sāyujya:ヴィシュヌとの合一)が得られると説く。さらに諸ユガの比較により、カリ・ユガにおける功徳の即効性が強調される。 ヴェンカターチャラ(Veṅkaṭācala)は、多くの聖地の霊験を包摂する総合的なティールタ(tīrtha)の場として讃えられ、象徴的にデーヴァ、ムニ、ピトリ(pitṛs:祖霊)が満ちると語られる。外面的儀礼よりも想念と讃嘆が繰り返し優先され、また「八種のバクティ」(aṣṭavidhā bhakti)として、信者への愛、礼拝による満足、身近な奉仕、神の偉大さを聴聞したい熱意、不断の想起などが説示される。 聖なる中心を怠ることや敵意を抱くことへの戒めも示される。果報を説くファラシュルティ(phalaśruti)では、信心をもって本章を聴き、また誦する者は罪(pāpa)を離れ、ヤマの苦患を免れ、ヴィシュヌの界へと高められ、多くの福徳を得ると約束される。

Adhyaya 19

Adhyaya 19

Veṅkaṭācala-Nityāvasthā, Ārohaṇa-Krama, and Pāpavināśana-Tīrtha Māhātmya (दर्शन-आरोहण-तीर्थमाहात्म्य)

本章は、ヴェンカターチャラ(Veṅkaṭācala)を常住の清浄地として讃える。無数の湖・河・海・森・アーシュラマがあり、ヴァシシュタをはじめとする聖仙、シッダ、チャーラナ、キンナラの群れが住む。そこにはヴィシュヌとラクシュミー、ダラニー、ブラフマーとサーヴィトリー、サラスヴァティー、シヴァとパールヴァティー、ガネーシャとṢaṇmukha、さらにインドラ以下の諸天、惑星神、ヴァス、祖霊(ピトリ)、方位護神(ローカパーラ)が集い、山全体が絶えざる礼拝の会座となっている。 続いて登拝の作法が説かれる。巡礼者はヴェンカタードリに言葉で赦しを乞い、マードゥヴァ(Mādhava)のダルシャナを願ってから、柔らかな歩みで聖域へ進む。スヴァーミプシュカリニー(Svāmipuṣkariṇī)では節度をもって沐浴し、祖先に対しては僅かなピンダダーナ(piṇḍadāna)であっても供養すれば、死後の諸境位にわたり救い上げられると約束される。 中心はパーパヴィナーシャナ(Pāpavināśana)ティールタの大功徳である。名を憶念するだけで「胎内に留まる」苦を避け、スヴァーミ・ティールタの北で沐浴すればヴァイクンタへ至るという。リシたちの問いに答え、スータは教訓譚を語る。ヒマヴァト近くのブラフマーアーシュラマで、シュードラのドリダハマティが高度な儀礼を望むが、クーラパティのバラモンは資格規定を掲げて入門を拒む。ドリダハマティは苦行に励み、信仰のための施設を築く。やがてバラモンのスーマティが長い交わりの末にヴェーダ儀礼と祖霊儀礼(ピトリ・カルマ)を授け施すが、その因でスーマティは死後に激苦を受け、長い再生の連鎖に落ちる。アガスティヤが業因を見抜き、唯一の対治としてヴェンカターチャラのパーパヴィナーシャナで三日間沐浴することを示し、ブラフマラークシャサの苦患を滅して安寧を回復させ、父子は臨終に解脱を得る。さらにドリダハマティも卑しい生を経て鳥となり、そこで飲み沐浴すると即座に変容し天の乗り物で昇る。こうして本章は、このティールタが罪を浄め、道徳的に損なわれた者をも正す力を重ねて宣言する。

Adhyaya 20

Adhyaya 20

पापनाशनतीर्थमाहात्म्यं तथा भूमिदानप्रशंसा (Glory of Pāpanāśana Tīrtha and the Praise of Land-Donation)

シュリー・スータは、パーパナーシャナ・ティールタ(Pāpanāśana-tīrtha)の「罪を滅する」霊験を、模範的な伝記物語によって説き起こす。学識と善行を備えたバドラマティ(Bhadrmati)は、しかし貧困のために社会的軽視と心の苦悩を負い、資財の欠如が人の敬意を損なうと嘆く。妻カーミニー(Kāminī)は、貞節の妻(pativratā)としての徳と倫理的洞察をもって、ヴェンカターチャラ(Veṅkaṭācala)への巡礼を勧める。すなわち、サンカルパ(saṅkalpa)を立てて沐浴し、シュリーニヴァーサ(Śrīnivāsa)に拝謁し、ブー・ダーナ(bhū-dāna、土地の布施)を行うべきだと、ナーラダ(Nārada)の伝授と父の先例を引いて諭す。 章はついで、ブー・ダーナを諸施の中の最勝として体系的に讃え、他の布施に比する果報(高位の儀礼に等しい功徳を含む)を列挙し、相応しい受者(śrotriya、ahi-tāgni)に施すなら重罪さえ中和し得ると説く。施主スゴーシャ(Sughōṣa)は測量された土地をバドラマティに与え、その功徳をジャナールダナ(Janārdana)に捧げ、物語は彼の死後の吉祥な行き先をその果として語る。バドラマティは家族とともにヴェンカターチャラへ赴き、スヴァーミ・サラス(Svāmi-saras)で沐浴し、ヴェンカテーシュヴァラ(Veṅkaṭeśvara)をダルシャナし、パーパナーシャナ・ティールタでブー・ダーナを成就する。儀礼の力により、螺・輪・棍を持つヴィシュヌ(Viṣṇu)が顕現して讃歌を受け、現世の安寧と究竟の解脱を保証し、スータはティールタと土地布施のマーハートミャ(māhātmya)を重ねて讃えて結ぶ。

Adhyaya 21

Adhyaya 21

Ākāśagaṅgā-tīrtha Māhātmya and Bhāgavata-Lakṣaṇa (रामानुजतपः, वेंकटेशदर्शनम्, भागवतलक्षणानि)

本章は、シュリー・スータがナイミシャーラニヤの聖仙たちに語り、アーカーシャガンガー(Ākāśagaṅgā)ティールタの功徳と、バガヴァタ(bhāgavata)の相を示す。経典(śāstra)に通じ、自制を備え、ヴァイカーナサ(Vaikhānasa)の規律に従う婆羅門ラーマーヌジャ(Rāmānuja)は、アーカーシャガンガーの岸で長き苦行を修する。夏は五火行(pañcāgni)、雨季は雨にさらされ、冬は水中に身を置き、八字真言(aṣṭākṣara)のジャパと、ジャナールダナ(Janārdana)への内的瞑想を続ける。 やがてヴェンカテーシャ/シュリーニヴァーサ(Veṅkaṭeśa/Śrīnivāsa)が、法螺貝・円盤・棍棒を携え、胸にシュリー・ラクシュミー(Śrī Lakṣmī)を宿す荘厳な神姿で顕現し、ナーラダ(Nārada)と天上の音楽、神々の随伴者がこれに従う。主はラーマーヌジャの讃歌(stuti)を受け入れ、抱擁して願いを授ける。ラーマーヌジャは退かぬ信愛(bhakti)を求め、ダルシャナ(darśana)こそ至高の成就と称える。主は御名と御姿を拝することの救済力を確言する。 さらに主は、アーカーシャガンガーで最も霊験ある沐浴の時—メーシャ・サンクラーンティ(Mesha-saṅkrānti)にチトラー星宿(Citrā nakṣatra)が満月日(pūrṇimā)と合する時—を示し、再び戻らぬ最高の住処を約束する。続いてバガヴァタの見分け方として、非暴力・無嫉妬・節制・真実、父母・婆羅門・牛への奉仕、聖なる物語を聴く喜び、巡礼志向、水と食の施し、エーカーダシー(Ekādaśī)の遵守、ハリの御名(Hari-nāma)への歓喜、トゥラシー(tulasī)への敬意、池・井戸・庭園・寺院などの公益事業を列挙する。スータはこれを、ヴリシャードリ/ヴェンカタードリ(Vṛṣādri/Veṅkaṭādri)におけるヴィヤドガンガー(Viyadgaṅgā)の「最上」(uttama)のマーハートミャであると結ぶ。

Adhyaya 22

Adhyaya 22

दानार्हसत्पात्रनिर्णयः तथा आकाशगंगामाहात्म्यम् (Eligibility for Worthy Recipients of Gifts and the Glory of Ākāśagaṅgā/Viyadgaṅgā)

本章は、リシたちがスータに、布施(dāna)の正しい受け手と、施与にふさわしい時機・条件を問うところから始まる。スータは規範的な序列を示し、祭式における主要な受施者としてブラーフマナ(brāhmaṇa)を立てつつも、受納は倫理と戒律を備えた者に限ると説く。ヴェーダとダルマに敵対する者、欺瞞、暴力、聖なる知を金銭のために売る者、常習的な物乞いなど、施しが niṣphala(無果・無効)となる者の長い排除一覧が挙げられる。続いて礼拝挨拶(abhivādana)の作法が語られ、むやみに礼を尽くすべきでない状況や相手が示され、手続きに反する挨拶は既得の功徳を減ずると警告される。 後半は Ākāśagaṅgā/Viyadgaṅgā のマーハートミヤ(霊験・功徳)であり、ナーラダがサナトクマーラに伝えた挿話として展開する。徳高いブラーフマナのプンニャシーラは年ごとに śrāddha を行うが、誤って「vandhyāpati」(不妊の妻の夫で、ここでは不適格とされる者)を導師に任じてしまう。その結果、顔が驢馬のように変じる(gārdabha-ānana)。彼はアガスティヤを訪ね、儀礼上の過失を指摘され、śrāddha の招請規則をより厳格に教えられる。子を持ち戒律ある家住のブラーフマナを選び、叶わねば近親、あるいは自ら執行せよという。さらにアガスティヤは、ヴェンカターチャラへの巡礼による償いを授け、まずスワーミプシュカリニーで沐浴し、次いで tīrtha-vidhi に従って Viyadgaṅgā/Ākāśagaṅgā で沐浴せよと命じる。正しく沐浴すれば変形は即座に解けると説かれ、スータは伝承の系譜を再確認して結ぶ。

Adhyaya 23

Adhyaya 23

Cakratīrtha-māhātmya and Padmanābha’s Tapas; Sudarśana’s Protection (चक्रतीर्थमाहात्म्यं)

スータは聖仙たちに向かい、チャクラティールタ(Cakratīrtha)のマーハートミャ(霊地の功徳)を、浄化を中心とする神学的教説として説く。この霊地の偉大さを聞くことは、道徳的な穢れを除き、信者の心をヴィシュヌ(Viṣṇu)の住処へと向けると語られる。 物語は、規律あるバラモンの苦行者パドマナーバ(Padmanābha)が、チャクラプシュカリニー(Cakrapuṣkariṇī)の岸辺で長きタパスを修するところから展開する。真実、慈悲、節制、無執着、万物への善意が称えられ、これに満悦したシュリーニヴァーサ/ヴェンカテーシュヴァラ(Śrīnivāsa/Veṅkaṭeśvara)が顕現し、守護者・穢れを除く者・宇宙の証人・バクタの帰依処といった神徳を列挙する荘厳な讃歌(stuti)を受け、霊地の傍らに住して絶えず礼拝するよう命じる。 やがて羅刹が聖者を脅かし、パドマナーバは帰依の句をもって救護を願う。ヴィシュヌはスダルシャナ(Sudarśana、神輪)を遣わし、炎の輝きとともに来臨した神輪は魔を逃走させ、ついに討ち滅ぼす。パドマナーバはスダルシャナを讃え、恒久の守護を請い、スダルシャナは衆生利益のためチャクラティールタに常住する恩寵を授け、当地の護持の名声を確立する。ここでの沐浴はモークシャ(解脱)へ向かうとされ、浄化の功徳は子孫にも及ぶと説かれ、章末は誦読・聴聞の功徳を重ねて確認し、チャクラティールタを比類なきティールタとして、沐浴者に解脱を約束して結ぶ。

Adhyaya 24

Adhyaya 24

सुन्दरगन्धर्वस्य शापः, राक्षसत्वनिवृत्तिः, चक्रतीर्थमाहात्म्यम् (Sundara Gandharva’s Curse, Release from Rākṣasa-form, and the Glory of Cakratīrtha)

本章は、ヴィシュヌ(Viṣṇu)に帰依するブラーフマナを害した残忍なラークシャサ(rākṣasa)について、リシたちがスータ(Sūta)に問うところから始まる。スータは、ヴァイクンタ(Vaikuṇṭha)のごとき聖地として描かれるシュリーランガ(Śrīraṅga)で、信徒がシュリーランガナータ(Śrīraṅganātha)を礼拝していた昔話を語る。ヴィーラバーフ(Vīrabāhu)の子であるガンダルヴァのスンダラ(Sundara)は、水辺で多くの女性に対し不品行を働く。正午の儀礼のためヴァシシュタ(Vasiṣṭha)が来ると、女性たちは身を覆うが、スンダラだけは覆わず、その恥知らずのゆえにラークシャサとなる呪いを受ける。 女性たちは社会道徳への害を訴えて慈悲を乞うが、ヴァシシュタは自らの言葉の真実を曲げず、ただし救済の道を示す。呪いは十六年に限られ、その後スンダラはラークシャサの姿で彷徨い、吉祥なるヴェンカタードリ(Veṅkaṭādri)とチャクラティールタ(Cakratīrtha)に至る。そこにはヨーギンのパドマナーバ(Padmanābha)が住み、ラークシャサが彼を襲うとき、ヴィシュヌのスダルシャナ(Sudarśana)がブラーフマナを守るために動き、ラークシャサの首を断ってスンダラを解放し、神の姿に戻して天界へ導くという。 物語はその通りに成就する。スンダラは恐るべきラークシャサとなって十六年さまよい、ついにチャクラティールタでパドマナーバを襲う。ヨーギンがジャナールダナ(Janārdana)を讃えると、スダルシャナが現れてラークシャサを討つ。光り輝く本来の姿に復したスンダラはスダルシャナを讃え、天界へ帰ることと、嘆き悲しむ妻たちに会う許しを願い、スダルシャナはこれを許す。さらにパドマナーバは、罪の除去と解脱、そしてブータ(bhūta)やピシャーチャ(piśāca)などへの恐れからの守護のため、スダルシャナがチャクラティールタに常住するよう請う。スータは、この物語を聞くことが人の罪を滅し、このティールタの浄化の功徳が説き明かされたと結ぶ。

Adhyaya 25

Adhyaya 25

जाबालितीर्थमाहात्म्यवर्णनम् | The Glory of Jābāli Tīrtha (Jābālītīrtha Māhātmya)

第25章は、聖仙スータ(Śrī Sūta)がナイミシャーラニヤ(Naimiṣāraṇya)の賢者たちに語るティールタ・マーハートミャ(tīrtha-māhātmya)として展開する。スータは、ヴェンカタードリ(Veṅkaṭādri)にあるジャーバーリー・ティールタ(Jābālītīrtha)が一切の罪を滅する力をもつ霊地であると告げる。賢者たちは、ドゥラーチャーラ(Durācāra)という人物と、その過失の内容を問う。 スータによれば、カーヴェリー河(Kāverī)近くに住むバラモンであったドゥラーチャーラは、長く大罪(mahāpātaka)を犯す者たち――バラモン殺し、酒を飲む者、盗人、師の床を汚す者など――と交わり続けた。経文は、儀礼的・社会的な汚染が段階的に深まる教えを示し、同居・接触・共食・同寝が重なるほど「バラモン性」(brāhmaṇya)が減じ、ついには同等の罪に至ると説く。やがて彼は苦悩し、ヴェターラ(vetāla)に憑かれて彷徨う。 残る功徳と天の導きにより、彼はヴェンカタードリに至り、ジャーバーリー・ティールタに沈められて沐浴するや、ただちにヴェターラと罪から解放される。彼は仙人ジャーバーリー(Jābāli)に近づき、その理由を求める。ジャーバーリーは、憑いていたヴェターラもかつてはバラモンで、命日に定められたパールヴァナ・シュラーダ(pārvaṇa-śrāddha)を怠ったため祖霊に呪われ、ヴェターラとなったのだと明かし、このティールタでの沐浴はその者さえヴィシュヌ界(Viṣṇuloka)へ解脱させると説く。さらに、亡き父母へのシュラーダ(śrāddha)を怠ればヴェターラの境遇に堕ち、のち地獄に至ると戒める。結びの果報讃(phalaśruti)では、ジャーバーリー・ティールタでの一度の沐浴が、スマṛティ(smṛti)に明確な贖罪法(prāyaścitta)が見えない罪を含む難償の過失さえ除き、またこの物語を聴聞すること自体も罪を浄め解放へ導くと強調される。

Adhyaya 26

Adhyaya 26

Ghōṇa-tīrtha (Tumburu-tīrtha) Māhātmya and the Tumburu Gandharva Narrative

第26章は、Ghōṇa-tīrthaの比類なき浄化力を讃える。シュリー・スータは吉祥の時を示し、Uttarā-Phālgunī宿が白分(明るい半月)と合し、太陽がMīna(双魚)に入るとき、ガンガーをはじめとする大いなるティールタがこの地に合流すると説く。 続いて教義的・倫理的な警告が語られる。Ghōṇa-tīrthaでの沐浴を退ける者は、社会的・儀礼的な重大過失の列挙によって描かれ、巡礼の義務と懺悔の理を強く印象づけられる。さらに文は救済の調べへ転じ、沐浴・聖水の飲用・ティールタへの敬虔な関わりによって、多種多様な罪過が清められると述べ、道徳回復のための儀礼的手段としての力を示す。 挿話(itihāsa)はTumburu-tīrthaの名の由来を明かす。デーヴァラはガールギャに、ガンダルヴァのトゥンブルが家庭内の争いから呪いを受けたのち、この地で沐浴しVeṅkaṭeśvaraを礼拝してViṣṇulokaに至ったと語る。呪われた妻は蛙となり、ティールタ近くのピッパラ樹の洞に住むが、アガスティヤが来てpativratā-dharmaを教え、彼女を回復させる。結びのphalaśrutiでは、PaurṇamāsīにGhōṇa-tīrthaで沐浴すれば大施与や大祭に等しい果報を得、また本章を聴聞すればVājapeyaに比する功徳と久遠のViṣṇulokaが約束される。

Adhyaya 27

Adhyaya 27

Veṅkaṭācala as the Basis of All Tīrthas: Tīrtha-Enumeration, Auspicious Bathing Times, and the Merit of Purāṇa-Śravaṇa

第27章は、聖仙たちがスータに対し、ヴェーンカタードリ(Veṅkaṭādri)が「大いなる功徳の山」と称される所以を問い、同山のティールタ(tīrtha)について、総数・主要ティールタ・さらにダルマへの志向、知恵、バクティと離欲(vairāgya)、そして解脱(mokṣa)を授けるものの区分を、数的な秩序をもって示すよう請うところから始まる。スータは体系的に答え、ティールタの総数は莫大であること、そこから「主要」と定められた少数があり、さらに倫理的・救済論的な果報に応じて下位分類があることを説く。 続いて章は、ヴェーンカターチャラ(Veṅkaṭācala)山頂の解脱に結びつくティールタの巡礼暦へと焦点を絞り、Svāmipuṣkariṇī、Viyadgaṅgā、Pāpavināśana、Pāṇḍutīrtha、Kumāradhārikā、Tuṃboṣṭīrthaを名指しする。そして、月・ヨーガ・ラヴィ(太陽)の位置に基づく吉祥の沐浴時を定める(例:Kumbha-māsaにMaghā-yoga、ラヴィがMīnaに在る時、Meṣa-saṅkramaにCitrā、ラヴィがVṛṣabhaに在りDvādaśī/Harivāsaraに当たる時、Dhanuḥ-māsaのDvādaśīの暁)。各時期には、王者の大祭に等しい功徳、障碍の解除、罪の滅除、そしてmokṣaといった果が説かれ、併せてダーナ(dāna)の規範—黄金、牛の施与、Śālagrāma-śilāの寄進、力に応じた布施—が示される。 最後に章は、場所に依る儀礼から携行可能な修行へと転じ、カリ・ユガにおいてヴィシュヌ(Viṣṇu)のプラーナ(Purāṇa)物語を聴聞することが殊に有効であると讃える。短い時間でも心を込めて聴けば、供犠と布施の総果に等しいとされ、nāma-saṅkīrtana(御名の唱和)と結び付けられる。さらに、語り手と聴衆の倫理規定—語り手の普遍的な尊崇、誦読にふさわしい場、端坐して聴く作法、無礼・妨害・不注意の悪果—を定め、結びに聖仙たちはスータを敬い、授かった教えを歓喜する。

Adhyaya 28

Adhyaya 28

कटाहतीर्थमाहात्म्यम् (Kataha Tīrtha Māhātmya) — Glory and Ritual Use of Kataha Tīrtha

本章は、シュリーヴェンカターチャラ(Śrīveṅkaṭācala)にあるカター ハティールタ(Kaṭāhatīrtha)の神聖をめぐる、多声的な神学対話として構成される。聖仙(ṛṣi)たちは三界に遍く名高いこのティールタの由来と威徳を問うて教えを請い、権威者としてナーラダ(Nārada)が招かれる。さらに、マハーデーヴァ(Mahādeva)でさえその全き偉大さを知ると宣言され、ガンガー(Gaṅgā)などの聖河・諸ティールタが自らの浄化のためにここへ赴くと説かれて、聖性の序列が示される。 また、この讃嘆を単なるアルタヴァーダ(arthavāda、誇張的賛辞)として退けることを厳しく戒め、懐疑は霊的危難であると位置づける。続いて飲水の作法(pāna-krama)が説かれ、八字真言(aṣṭākṣara)またはヴィシュヌ(Viṣṇu)の御名(三重の称名を含む)を唱えて飲むことが勧められる。真言なく飲んだ場合は、贖いの懺悔句を添えるべきだと教える。 結びには譬話が置かれる。婆羅門ケーシャヴァ(Keśava)は放逸と暴力により堕落し、ブラフマハティヤー(brahmahatyā)の罪を負って、擬人化された罪に追われる。バラドヴァージャ(Bharadvāja)の導きで、スヴァーミプシュカリニー(Svāmipuṣkariṇī)での沐浴、ヴァラーハ(Varāha)礼拝、シュリーニヴァーサ/ヴェンカテーシャ(Śrīnिवāsa/Veṅkaṭeśa)へのダルシャナ、そしてカター ハティールタの飲水を順に行うと、罪は消滅し、ヴェンカテーシャが神聖な言葉でそれを証明する。最後に本話はイティハーサ(itihāsa)に裏づけられ、忠実に伝承されたと締めくくられる。

Adhyaya 29

Adhyaya 29

अर्जुनस्य तीर्थयात्रा-प्रसङ्गः तथा सुवर्णमुखरी-वेङ्कटाचल-प्राप्तिः (Arjuna’s Pilgrimage Prelude and Arrival at Suvarṇamukharī and Veṅkaṭācala)

本章は、聖仙たちがスヴァルナムカリー河(Suvarṇamukharī)と、それに連なるティールタ(tīrtha)群の起源と霊験をさらに詳しく求めるところから始まる。スータは讃嘆と礼拝の言葉を捧げたのち、バラドヴァージャの伝承として語り、叙事詩に結びつく物語へ移る。すなわち、パーンダヴァたちのインドラプラスタ定住と、ドラウパディーに関する家内の誓約である。 誓約の条件は、ある兄弟が他の兄弟の住まいでドラウパディーに遭遇したなら、一年の巡礼(ティールタ・ヤートラー)に出るべし、というもの。続いて市中の出来事として、アルジュナがブラーフマナのために盗まれた牛を取り戻すが、そのため武器庫に入らねばならず、そこにドラウパディーとユディシュティラが居合わせたことで、誓約の帰結が発動する。 ここでダルマの議論が起こる。ユディシュティラは、ブラーフマナと財産を守るための行為ゆえ倫理的に弁護できると述べ、アルジュナは、誓いの完全性を守らねば名誉と道義が崩れるとして厳守を主張する。王の許しを得てアルジュナは従者と資具を伴い、ガンガー、プラヤーガ、カーシー、南海、プリー/プルショーッタマ、シンハーチャラ、ゴーダーヴァリーなどの大ティールタを巡り、ついにシュリーパルヴァタとヴェンカターチャラへ至る。山頂でハリを礼拝し、壺生の聖仙アガスティヤがもたらしたと説かれるスヴァルナムカリー河を拝して、その聖性が権威ある苦行者の力に結びつけられる。

Adhyaya 30

Adhyaya 30

सुवर्णमुखरीवर्णनम् — Description of the Suvarṇamukharī and Arjuna’s visits to Kālahastīśvara and Bharadvāja’s āśrama

本章はスータ(Sūta)の語りの枠組みにより、スヴァルナムカリー河(Suvarṇamukharī)を抒情的かつ地誌的に描写する。涼風、波、蓮華、水鳥、そしてティールタ(tīrtha)としての清浄な気配が語られ、河は田畑を潤し苦行者の住処を支える聖なる働きとして讃えられる。 ついでアルジュナはカーラハスティ(Kālahastī)に結びつく名高い山を望み、河で沐浴してから、カーラハスティーシュヴァラ(Kālahastīśvara、シヴァŚiva)を拝観(darśana)し供養して、儀礼の成就を覚える。さらに彼は各地を進み、シッダ、ガンダルヴァ、ヨーギー、静かな庵、戒律を守るムニの共同体を目にして、修行と景観が相互に支え合う徳の世界を示す。 物語はアルジュナがバラドヴァージャ(Bharadvāja)のアーシュラマ(āśrama)へ近づく場面へ移り、林苑や花木、鳥の群れ、澄んだ湖などの豊饒が列挙される。バラドヴァージャはアルジュナを作法どおりにもてなし(アルギャarghya、座、安否の問い)、願いを叶える牝牛を想起して食を整える。章末でアルジュナは河の驚くべき起源と力に関心を抱き、次章の解説へと導かれる。

Adhyaya 31

Adhyaya 31

अर्जुन–भरद्वाजसंवादः । अगस्त्यदक्षिणगमनं च (Arjuna–Bhāradvāja Dialogue and Agastya’s Southward Journey)

本章はプラーナ的枠物語で始まる。夕刻の作法を終えたアルジュナは、敬虔に聖仙バーラドヴァージャに近づき、大河の起源と、そこで沐浴し施与(ダーナ)を行うことによって得られる功徳を問う。バーラドヴァージャはアルジュナの徳と家系を認め、注意深く聴聞すれば過失の業から生じる苦悩を和らげるという、浄化の「神聖な物語」を説き起こす。 語りはついで、シャンカラ(マハーデーヴァ)の婚礼に結びつく宇宙論的・儀礼的事件へ移る。祝賀のために衆生と神々が集まると、大地は重みに耐えかねて均衡を失い揺らぐ。マハーデーヴァはその不均衡を見て、神威より生じ世界護持に身を捧げる聖仙アガスティヤに、南方へ赴き均衡を回復するよう命じる。アガスティヤがヴィンディヤ山脈を越えると大地は安定し、天界の者たちは彼を讃える。 さらに彼は、造られた太陽のように輝く崇高な山を見て登り、北岸の美しい湖のほとりにアーシュラマを स्थापितし、規定に従って祖霊・神々・リシたち・ヴァーストゥの神々を礼拝する。本章は、問答による求法、聖地の由来、そして世界の均衡を支える苦行の倫理的範型を織り合わせて描く。

Adhyaya 32

Adhyaya 32

सुवर्णमुखरी-नदी-प्रवर्तनम् (The Manifestation and Course-Setting of the Suvarṇamukharī River)

本章は、川のない地に衆生の福祉のため聖なる河川がいかにして定められるかを説く、起源を明かす神学的叙述である。バラドヴァージャは、アガスティヤが朝の作法と礼拝を終えた後、虚空よりの不可視の天啓(ākāśavāṇī)を聞き、「川なき国は祭祀と文化の光彩を欠く」と告げられ、深い道徳的苦患から生じる恐れを除く吉祥の大河を起こすよう促されたと語る。 アガスティヤは集う仙賢に諮り、彼らは過去の比類なき功業を讃えて、沐浴と浄化が成就するよう大河の顕現を請う。そこで彼は厳烈なタパスを行い、酷しい季節を通じて戒律をいよいよ強める。その苦行の力は宇宙を揺るがし、衆生に畏れを起こさせた。諸天は梵天(ブラフマー)に救いを求め、梵天はアガスティヤの庵に現れて恩寵を授け、願いを聴く。 アガスティヤは大河によって国土を清め守護することを願う。梵天はガンガーを召し、彼女に自らの一分(svāṃśa)として降下し、人々を浄め、仙人と天衆に常に奉仕される河となるよう命じる。ガンガーはその分身より生まれた光輝の姿を示して成就を約し、アガスティヤは流路を指し示す。章末では、彼が山上から望む道筋に沿ってこの河の姿を導き、スヴァルナムカリーの聖性の根拠を打ち立てる。

Adhyaya 33

Adhyaya 33

सुवर्णमुखरीप्रभावप्रशंसा (Praise of the Efficacy of the Suvarṇamukharī River)

第33章は、Veṅkaṭācalamāhātmya におけるスヴァルṇムカリー川(Suvarṇamukharī)の出現、命名、そして儀礼的・神学的地位を語る。バラドヴァージャは、シャクラ(Śakra)に率いられた神々と、仙賢・シッダ(siddha)・チャーラナ(cāraṇa)・ガンダルヴァ(gandharva)の集会が、アガスティヤに随伴するこの川を讃嘆するさまを述べる。さらにヴァーユは、その起源と名声を説き、アガスティヤが地上にもたらしたこの川が「スヴァルṇムカリー」として称えられ、諸河の中で最勝にして奉仕供養に値すると明かす。 続いて māhātmya が詳述される。想起(smaraṇa)と沐浴(snāna)は罪を滅し、遺骨を沈めることは上昇を助け、岸辺で行う諸儀礼は功徳の効験を倍増させる。濃密な phalaśruti では、健康、障碍の除去、祖霊供養、日食月食や saṅkrānti など暦に基づく斎行の利益が列挙される。章末には、アガスティヤの昇る日に結ぶ年次の誓願が定められ、黄金のアガスティヤ像を作って布施し、儀礼により敬い、ブラーフマナに施食して功徳を回向すれば、積もる過失から解放され、久遠の霊的利益を得ると約束される。

Adhyaya 34

Adhyaya 34

अगस्त्यतीर्थ–अगस्त्येश्वरप्रभावः; देवर्षिपितृतीर्थमाहात्म्यम्; सुवर्णमुखरी–वेणासङ्गमः; व्याघ्रपदासङ्गमः; शङ्खतीर्थवर्णनम् (Agastya Tīrtha and Agastyeśvara; Deva–Ṛṣi–Pitṛ Tīrthas; River Confluences; Śaṅkha Tīrtha)

本章は、問いかけに対して地誌的・儀礼的に答える形で構成される。アルジュナはなおも聞きたいと願い、川沿いのティールタ(tīrtha)と合流点(saṅgama)、そこでの沐浴と礼拝の功徳を列挙するよう聖仙に請う。バラドヴァージャは順に説き、まずアガスティヤ・ティールタは重い罪さえ浄めると述べ、次いで聖仙アガスティヤが安置したリンガであるアガスティエーシュヴァラを示す。川で沐浴した後に供養すれば、大いなる祭祀に等しい功徳が得られるという。 また、太陽がマカラ(Makara)に入る時期に結びつく吉祥の沐浴時を挙げ、その季節にアガスティエーシャへのダルシャナ(darśana)を行うべきことを説く。続いてデーヴァ–リシ–ピトリの三ティールタが示され、正しいタルパナ(tarpaṇa)と沐浴により「三つの負債」(ṛṇa-traya)が除かれると語られる。 さらに川の流れと合流が描かれ、スヴァルナムカリーがヴェーナーと合し、次いでスヴァルナムカリーがヴィヤーグラパダーと合する。各サンガマは功徳を増大させる要所として讃えられる。最後にシャンカ・ティールタと、聖仙シャンカが安置したシャンケーシャが説かれ、ダルシャナ、スナーナ(snāna)、パーナ(pāna:儀礼の飲水)を合わせた行が、ヴリシャバーチャラ(Vṛṣabhācala)地方へ向かう信愛の巡礼路であると強調される。

Adhyaya 35

Adhyaya 35

सुवर्णमुखरी–कल्यानदीसंगमः, वेंकटाचलवर्णनम्, नारायणमाहात्म्यं च (Suvarṇamukharī–Kalyā Saṅgama, Description of Veṅkaṭācala, and the Greatness of Nārāyaṇa)

第35章は三つの連動する展開から成る。(1) ティールタの地誌:バールァドヴァージャは、スヴァルナムカリー川(Suvarṇamukharī)が聖なるカリヤー川(Kalyā)に合流するさまを語り、その合流点を格別に浄化力の高い場所として讃える。そこで沐浴すれば大祭祀に等しい功徳を得、合流の聖性とアビシェーカ(abhiṣeka)に結びつく清めによって、ブラフマハティヤー類の重罪に至るまで穢れが減ずると説かれる。 (2) 場としての山岳神学:物語はヴェンカターチャラ山(Veṅkaṭācala)の位置と威容へ移り、「あらゆるティールタの帰依処」、またヴァラーハ・クシェートラ(Varāha-kṣetra)として示される。そこにヴィシュヌ—アチュタ(Acyuta)—はシュリー(Śrī)と共に住し、シッダ、ガンダルヴァ、仙人、人々が主に奉仕する姿が描かれる。ヴェンカタードリの主を憶念することは災厄を除き、不壊の境地へ導くと位置づけられる。 (3) 教説の提示:神の顕現と、ブクティ(bhukti)およびムクティ(mukti)の授与についてアルジュナが問うと、バールァドヴァージャはナーラーヤナ(Nārāyaṇa)の至上性、諸名と同一性、四重の流出(エマネーション)体系、マントラ中心の修行規範、さらに宇宙生成の概略—神身からの諸神・宇宙原理の発生、周期的な溶解とヨーガ睡眠(yoganidrā)、ブラフマーの再出現、そしてダルマ回復のための諸形態の受容—を説き明かす。本章は巡礼の倫理、信愛による救済、プラーナ的形而上学を一つの教示として融合している。

Adhyaya 36

Adhyaya 36

Varāha-kṛta-dharaṇyuddharaṇa-kramaḥ and Śvetavarāha-kalpa-vṛttānta (Varāha’s Raising of Earth and the White Boar Kalpa Account)

本章は対話形式の神学的叙述として展開し、バラドヴァージャ仙が、宇宙の大洪水の後にヴィシュヌがヴァラーハ(猪)形をとって大地ヴァスーマティーを回復し、救い上げる次第を語る。主は「大地なくしては衆生の重荷を支える者はない」と洞察し、下界に沈んだ大地を見出して、ヴェーダの韻律・祭火・祭具が四肢に配当される“ヤジュニャ・マヤ(祭祀そのものの身体)”としてのヴァラーハ身を現す。 ヴァラーハは水中に入り闇を払い、深淵の国を制して、牙の上に大地を載せて引き上げる。賢仙たちの讃嘆が満ち、海の荒れは吉祥の響き、供物のような光景として描かれる。続いてアルジュナは、プララヤの時に大地はいかに存続するのか、七つのパーターラの下で何がそれを支えるのかと問う。バラドヴァージャはナーḍikā・日・月・年などの時間単位、ユガとマンヴァンタラの構造、そしてシュヴェータヴァラーハ・カルパにおける諸マヌの順序を説き明かす。 さらにプララヤの相—旱魃と熱、幾年にも及ぶ雨、世界の水没—が語られ、ブラフマーがヴィシュヌの臍蓮においてヨーガ睡眠(ヨーガニドラー)に入り、神命によって再創造が始まることが示される。結びに、このカルパではヴィシュヌが白きヴァラーハとして現れ、ヴェンカターチャラに至ってスヴァーミプシュカリニー近くに住したと述べ、ブラフマーの請願により神の本相へ戻った後は直視し難くなるため、人々がバクティと聖なる物語の聴聞によっていかに主に近づくかをアルジュナが問う。

Adhyaya 37

Adhyaya 37

शंखराजवृत्तान्तः — King Śaṅkha’s Devotion and the Veṅkaṭācala Darśana-Path

本章は、バールァドヴァージャ(Bhāradvāja)が、ハイハヤ(Haihaya)系の王シャṅカ(Śaṅkha)という模範的な王の信仰を語る。王はヴィシュヌ(Viṣṇu)への一途な帰依に生き、常の想念、ジャパ(japa)、プージャー(pūjā)、ヴァイシュナヴァ系プラーナの物語を敬虔に聴聞することを怠らない。さらに布施、誓願、そして大いなる祭祀(yajña)を正しい供養金(dakṣiṇā)とともに行うが、なお直接のダルシャナ(darśana)を得られぬことを嘆き、過去の覆いの残滓ゆえと受け止める。 そのときケーシャヴァ(Keśava)が姿なき声として告げ、ヴェーンカタナーマ・アドリ(Veṅkaṭanāma-adri)こそ主が殊に愛する住処であり、そこで持続するタパス(tapas)の後に神は可視となる、と期限を示す。シャṅカは子ヴァジュラ(Vajra)に統治を託し、ナーラーヤナギリ(Nārāyaṇagiri)へ赴いてスワーミー・プシュカリニー(Swāmi-puṣkariṇī)に出会い、その岸辺に修行の庵を結ぶ。 同時に、ブラフマー(Brahmā)の命により聖仙アガスティヤ(Agastya)も来訪し、山を周回し、スカンダダーラー(Skandadhārā)を含むティールタ(tīrtha)を巡ってゴーヴィンダ(Govinda)を礼拝するが、当初はなお見神に至らない。やがてブリハスパティ(Bṛhaspati)、ウシャナス(Uśanas)、そしてラージョーパリチャラ(Rājoparicara)というヴァス(Vasu)が神意を伝え、ヴェーンカタにおいてゴーヴィンダがアガスティヤとシャṅカの双方に顕現し、その時集う者たちも共にダルシャナを得ると告げる。章末、アガスティヤ一行は山の吉祥なる自然を観じつつスワーミー・プシュカリニーの岸へ至り、シャṅカは儀礼の敬意をもって迎え、キールタナ(kīrtana)を中心とする共同のバクティを捧げる。

Adhyaya 38

Adhyaya 38

अगस्त्य-शङ्खतपःप्रसादः, सौम्यरूपप्रादुर्भावः, सुवर्णमुखरी-माहात्म्यम् (Agastya & Śaṅkha’s tapas—divine grace, the gentle epiphany, and Suvarṇamukharī’s sanctity)

バラドヴァージャは語る。ジャガンナータへの礼拝に没入する帰依者たちは、日々を讃歌と儀礼に捧げ、第三夜には、法螺貝・円盤・棍棒を執る四臂のプルショーत्तマを吉祥の夢として拝する。スヴァーミプシュカリニーでの沐浴と朝の作法を終えて礼拝を再開すると、宇宙の光が凝集したかのような比類なき光輝が現れる。 畏怖を起こす壮厳な神現により、ブラフマーら諸天が来臨してナーラーヤナの超越を讃え、恐れのゆえに「シャーンタ」なる安寂の御姿を請い願う。主はこれを許し、宝玉のヴィマーナに乗って、柔和で悦ばしい「サウミヤ」の御姿として再び現れ、アガスティヤに語りかけて恩寵を授ける。アガスティヤは苦行の成就を述べ、揺るがぬバクティを願い、さらに主の山の近くを流れるスヴァルナムカリー河を罪を滅するティールタとし、そこで沐浴してからヴェンカタにて主を拝する者に、ブクティとムクティを与え給えと祈る。 シュリー・バガヴァーンはこれを成就し、アガスティヤの願いにより「ヴァイクンタ」と名づく丘に常住すると宣言し、参詣者のみならず、いずこにあっても主を憶念する者に至るまでの功徳を説く。さらに王シャङカには死後の高き帰趣を授け、ついに御身を隠される。バラドヴァージャは果報讃(パラシュルティ)をもって結び、ヴェンカタードリとスヴァーミプシュカリニー、そしてこのマーハートミヤを聞き憶えることの救済力を称揚する。

Adhyaya 39

Adhyaya 39

अञ्जनातपःप्रकारः (Añjanā’s Mode of Austerity and the Vāyu-Boons at Veṅkaṭācala)

本章はスータによって伝えられる対話として構成される。子に恵まれず嘆くアンジャナー(Añjanā)のもとへ聖仙マタンガ(Matanga)が訪れ、その目的を問う。アンジャナーは、かつてシヴァが父ケーシャリー(Keśarī)に授けた恩寵を語る――現生には制約があっても、名高い娘が生まれ、その娘の子(男児)が父に歓喜をもたらすという。 彼女は子を願って行ってきた数々の信行と徳行を列挙する。季節・月ごとのヴラタ(vrata)、沐浴と施し、周回礼拝と礼拝、シャーラグラーマ(śālagrāma)に関わる供養、そして多様なダーナ(dāna)。それでも男児を得られず、ついにタパス(tapas)という厳修へと向かう。 マタンガは聖地の具体的な巡礼路を示す。南はガーナーチャラ(Ghānācala)とブラフマティールタ(Brahmatīrtha)、東はスヴァルナムカリー(Suvarṇamukharī)、北はヴリシャバーチャラ(Vṛṣabhācala)とスヴァーミプシュカリニー(Svāmipuṣkariṇī)へ。そこで沐浴し、ヴァラーハ(Varāha)とヴェーンカテーシャ(Veṅkaṭeśa)を敬い、吉祥の樹々に囲まれたヴィヤドガンガー(Viyadgaṅgā)のティールタへ進み、風神ヴァーユ(Vāyu)に向けた苦行を行うべきだという。アンジャナーは教えに従い、果実と水からさらに厳しい節制へと修行を深める。千年の後、占星により示された吉時にヴァーユが顕現して願いを授け、彼女が子を求めると、ヴァーユは自らがその子となると宣言し名声を約束する。結びには神々・仙人・天后たちが集い、この比類なきタパスを目撃し、正しく定められたティールタでの規律ある修行が、変容をもたらす神聖な応答を招くことが示される。

Adhyaya 40

Adhyaya 40

अञ्जनावरलब्ध्य्-आकाशगङ्गास्नानकालनिर्णय-करणीयदानप्रशंसा (Añjanā’s Boon; Determination of the Proper Time for Ākāśagaṅgā Bath; Praise of Prescribed Gifts)

本章は対話の中に織り込まれた、儀礼と倫理の教示である。スータは、アンジャナーが夫とともにブラフマーおよび諸神に邂逅する場面を語り、彼らの同意によってヴィヤーサが権威を授けられ、主要な師となることを示す。ヴィヤーサは「衆生利益」の説法として、マタンガ仙の先の言葉を受け、アンジャナーの子がヴェンカタにおける厳しい苦行の後に誕生するという宿命を説く。 続いて、アーカーシャガンガー/ヴェンカタのティールタ群で沐浴すべき適時を定める「カーラ・ニルナヤ(時の決定)」が説かれる。アンジャナーの「顕現の日」(プラティヤクシャ・ディヴァサ)には、ガンガーと諸ティールタが合流するとされ、とりわけスワーミー・プシュカリニーの神聖が強調される。満月日、メーシャとプーシャン、さらにナクシャトラへの言及という特定の暦的条件が挙げられ、その功徳は長年にわたりガンガー沿いのあらゆるティールタで沐浴するに等しいと比喩される。 その後、ヴェンカタードリにおける規範的なダーナ(布施)へと話は移る。食物と衣の施与が讃えられ、父のためのシュラーダッダが殊に重要とされる。黄金、シャーラグラーマ、牛、土地、娘の婚姻、飲水と休息の施し、胡麻、穀物、香と花、傘と扇、ビンロウ等の段階的な供施が列挙され、天界の享楽、主権、聖典に通じたバラモンとしての生、そして最後にはチャクラパーニ(ヴィシュヌ)の恩寵による解脱へと、果報が高まることが説かれる。結びの功徳讃(パラシュルティ)は、これを常に聴聞・誦読する者が罪垢を浄められヴィシュヌローカに至り、その利益が子孫にも及ぶと宣言する。

FAQs about Venkatachala Mahatmya

It presents Veṅkaṭācala as a sanctified mountain where divine presence is localized through mythic etiologies, with Varāha and Śrīnivāsa narratives establishing the site’s ritual authority.

The section typically frames pilgrimage merit through disciplined worship, mantra-japa, and place-based devotion, promising both prosperity-oriented outcomes and liberation-oriented benefits depending on intent and observance.

Key legends include Varāha’s relationship with Dharaṇī (Bhūdevī), the establishment and secrecy of a potent Varāha mantra, and anticipatory questions about Śrīnivāsa’s arrival and enduring presence on Veṅkaṭa.