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『アートマ・ウパニシャッド』(後代の伝承でアタルヴァ・ヴェーダ系に配当される)は、不二一元(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)の立場から真我(ātman)の本性を簡潔に説く小品である。真我は身体・感官・心・自我(我執)ではなく、自ら輝く意識であり、あらゆる経験の証人(sākṣin)であると強調する。『ネーティ・ネーティ』(非此非彼)と識別(viveka)によって、見られ・知られる対象への同一化を解き、純粋意識を顕現させる。 思想史的には、外的祭式よりも内的認識を重視する後期ヴェーダーンタ的環境を反映し、解脱(mokṣa)を主として知(jñāna)として理解する。覚醒・夢・深睡の三状態は「見られるもの」として位置づけられ、真我はそれらを超える第四(turīya)として示唆される。 結論として、解脱は新たに作り出される成果ではなく、無明(avidyā)による誤った重ね合わせ(adhyāsa)の止滅である。ātman と brahman の同一性を直接に悟ることが、恐れと苦の根を断つと説く。
Start ReadingĀtman is self-luminous consciousness (cit), the witness (sākṣin) of all states.
Discrimination (viveka): the Self is distinct from body, senses, mind, and ego.
Neti-neti (negation): whatever is seen/known is not the seer/knower.
Non-duality (advaita): ātman is brahman; multiplicity is nāma-rūpa dependent on avidyā.
Transcendence of the three states (waking, dream, deep sleep) and the three guṇas.
Freedom from doership/enjoyership (kartṛtva/bhoktṛtva) as a mark of realization.
Renunciation (sannyāsa) as inner disidentification, culminating in jñāna-mokṣa.
Liberation is immediate knowledge (aparokṣa-jñāna), not a produced result of action.
31 verses with Sanskrit text, transliteration, and translation.
Verse 1
ॐ अथाङ्गिरास्त्रिविधः पुरुषोऽजायत—आत्मा, अन्तरात्मा, परमात्मा चेति। त्वक्-चर्म-मांस-रोम-अङ्गुष्ठ-अङ्गुल्यः, पृष्ठ-वंश-नख-गुल्फ-उदर-नाभि-मेढ्र-कटि-ऊरु-कपोल-श्रोत्र-भ्रू-ललाट-बाहु-पार्श्व-शिरः-अक्षीणि भ...
オーム。ついでアンギラスは宣言した。「人(プルシャ)は三重である。すなわち、アートマン(個我)、アンタラートマン(内なる自己)、パラマートマン(至上の自己)である。」皮膚・肉・毛、親指と指、背・脊柱、爪・足首、腹・臍、性器・腰・腿、頬・耳、眉・額、腕・脇・頭・眼が成り立つ。生まれ、そして死ぬ—これが身体としてのアートマンである。次に「内なる自己」とは、地・水・火・風・空であり、欲と嫌悪、楽と苦、貪り、迷妄、概念の構成、始まりなき記憶の痕跡であり、また高低の調べ、短・長・引き伸ばされた音であり、どもり、咆哮、破裂、歓喜、舞踊、歌、器楽、融解、拡がり等として—聞く者、嗅ぐ者、味わう者、導く者、行う者、認識の自己としての人である。さらにプラーナやニヤーヤ、ミーマーンサー、ダルマ・シャーストラに関わり、聴・嗅・引き寄せ・行為の諸機能を果たす—これがアンタラートマンである。さてパラマートマンとは、不滅の音節として礼拝されるべきもの。プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ、ヨーガ、推理、自己観照によって—バニヤンの種子や黍の一粒のように微細に、あるいは髪の先を十万に分けたほどに想念して—それは得られるが、把握されない。生まれず死なず、乾かず湿らず、焼かれず、震えず、裂けず、切られない。属性なく、証人として立ち、清浄で、部分なき自己、ただ一つ、微妙で、我がものとせず、垢なく、変化しない。音・触・色・味・香を離れ、分別なく、希求なく、遍満する。思惟を超え、言説を超え、汚れたものも未浄のものも浄める。無為であるがゆえに、そこには輪廻(サンサーラ)はない。「自己」と名づけられ、吉祥なるシヴァ、清浄、唯一、常に不二—ブラフマンとして、ただブラフマンのみが顕現する。
Threefold analysis of self (deha-jīva/antarātmā/paramātmā), nirguṇa Brahman as sākṣin; negation of saṃsāra for the actionless SelfVerse 2
जगद्रूपतयाप्येतद्ब्रह्मैव प्रतिभासते । विद्याविद्यादिभेदेन भावाभावादिभेदतः॥२॥
世界という姿においてさえ、現れているのはただブラフマンのみである—知と無知の分別、存在と非存在の分別などによって。
Māyā/avidyā-based appearance (pratibhāsa) of jagat upon BrahmanVerse 3
गुरुशिष्यादिभेदेन ब्रह्मैव प्रतिभासते । ब्रह्मैव केवलं शुद्धं विद्यते तत्त्वदर्शने॥३॥
師と弟子などの区別によっても、現れるのはただブラフマンのみ。真理の直観においては、清浄にして唯一のブラフマンのみが在る。
Non-duality sublating relational dualities; pedagogical duality (guru–śiṣya) as provisionalVerse 4
न च विद्या न चाविद्या न जगच्च न चापरम् । सत्यत्वेन जगद्भानं संसारस्य प्रवर्तकम्॥४॥
知も無知もなく、世界もなく、他なるものもない。世界の顕れを真実と見なすことが、輪廻(サンサーラ)を作動させる。
Saṃsāra driven by satya-buddhi (taking appearance as absolute); ultimate negation (paramārtha) of dual categoriesVerse 5
असत्यत्वेन भानं तु संसारस्य निवर्तकम् । घटोऽयमिति विज्ञातुं नियमः कोऽन्वपेक्षते॥५॥ विना प्रमाणसुष्ठुत्वं यस्मिन् सति पदार्थधीः । अयमात्मा नित्यसिद्धः प्रमाणे सति भासते॥६॥
しかし(世界の)顕れを非実在と見ることが、輪廻(サンサーラ)を止滅させる。「これは壺である」と知るために、人はどの規則に依るのか。正しく働く認識手段(プラマーナ)がなければ対象の認識は成立しないが—このアートマンは常に成就しており、認識手段が現前するときに自ら輝き出る。
Pramāṇa and self-revelation; cessation of saṃsāra through asatya-darśana of appearances; nitya-siddha ātmanVerse 6
असत्यत्वेन भानं तु संसारस्य निवर्तकम् । घटोऽयमिति विज्ञातुं नियमः कोऽन्वपेक्षते ॥ विना प्रमाणसुष्ठुत्वं यस्मिन् सति पदार्थधीः । अयमात्मा नित्यसिद्धः प्रमाणे सति भासते ॥५–६॥
世界が不真実であると観ずるその顕現(認識)こそ、まさに輪廻(サンサーラ)を退けるもの。『これは壺である』と知るのに、いかなる規則や制限に依るのか。正しい認識手段(プラマーナ)の働きが整わずとも対象の知が起こるとき、このアートマンは常に成就している。しかれども、認識手段が具わるとき、それは明らかとなり知られる。
Māyā/Asat-khyāti and Atman as nitya-siddha (ever-established); pramāṇa and aparokṣa-jñānaVerse 7
न देशं नापि कालं वा न शुद्धिं वाप्यपेक्षते । देवदत्तोऽहमित्येतद्विज्ञानं निरपेक्षकम् ॥७॥
それは場所にも時間にも、さらには浄・不浄の条件にも依らない。『私はデーヴァダッタである』という認識は、かかる条件を要しない自立の知である。
Immediate self-cognition (aparokṣa-anubhava) and independence from ritual conditions; jñāna over karmaVerse 8
तद्वद्ब्रह्मविदोऽप्यस्य ब्रह्माहमिति वेदनम् । भानुनेव जगत्सर्वं भास्यते यस्य तेजसा ॥८॥
同様に、ブラフマンを知る者にとって『我はブラフマンなり』という知は、直観的で条件に依らない。太陽によって世界が照らされるように、その光輝によって全宇宙が照明される者の光によって、万有は輝く。
Aham Brahmāsmi; consciousness as self-luminous (svayaṃ-prakāśa) and illuminator of all experienceVerse 9
अनात्मकम् असत् तुच्छं किं नु तस्यावभासकम् । वेदशास्त्रपुराणानि भूतानि सकलान्यपि ॥ येनार्थवन्ति तं किं नु विज्ञातारं प्रकाशयेत् । क्षुधां देहव्यथां त्यक्त्वा बालः क्रीडति वस्तुनि ॥ तथैव विद्वान् रमते न...
自己ならざるものは、不実にして取るに足らぬ。いったい何がそれを照らし得ようか。ヴェーダ、シャーストラ、プラーナ、そして一切の存在も、彼によってこそ意味を得る。では、その知者を何が照らし得よう。飢えと身の痛みを離れて、子どもが物に戯れるように、知者もまた歓喜する——無所有にして無我、安楽である。欲の中を行じつつ、その本性は無欲であり、聖者は独り歩む。
Svayaṃ-prakāśa Atman (self-luminous knower); anātman as dependent appearance; jīvanmukti traits (nirmama, nirahaṃ, niṣkāma)Verse 10
अनात्मकम् असत् तुच्छं किं नु तस्यावभासकम् । वेदशास्त्रपुराणानि भूतानि सकलान्यपि ॥ येनार्थवन्ति तं किं नु विज्ञातारं प्रकाशयेत् । क्षुधां देहव्यथां त्यक्त्वा बालः क्रीडति वस्तुनि ॥ तथैव विद्वान् रमते न...
自己ならざるものは、不実にして取るに足らぬ。いったい何がそれを照らし得ようか。ヴェーダ、シャーストラ、プラーナ、そして一切の存在も、彼によってこそ意味を得る。では、その知者を何が照らし得よう。飢えと身の痛みを離れて、子どもが物に戯れるように、知者もまた歓喜する——無所有にして無我、安楽である。欲の中を行じつつ、その本性は無欲であり、聖者は独り歩む。
Svayaṃ-prakāśa Atman; anātman as dependent; jīvanmukti and niṣkāmatāVerse 11
अनात्मकम् असत् तुच्छं किं नु तस्यावभासकम् । वेदशास्त्रपुराणानि भूतानि सकलान्यपि ॥ येनार्थवन्ति तं किं नु विज्ञातारं प्रकाशयेत् । क्षुधां देहव्यथां त्यक्त्वा बालः क्रीडति वस्तुनि ॥ तथैव विद्वान् रमते न...
非我にして虚しく取るに足らぬものが、いかでか彼(アートマン)を照らし得ようか。ヴェーダ、シャーストラ、プラーナ、そして一切の存在も、彼によってこそ意味を得る。では、その彼を知る者を、何が顕わし得ようか。飢えと身の痛みを離れて、幼子が物に戯れるように、知者もまた喜ぶ—所有なく、我執なく、安楽である。欲なき相を帯び、対象の中を行き来しつつ、独りの牟尼は遊行する。
Ātman as self-luminous (svayaṃ-prakāśa); jīvanmukti; vairāgyaVerse 12
स्वात्मनैव सदा तुष्टः स्वयं सर्वात्मना स्थितः । निर्धनोऽपि सदा तुष्टोऽप्यसहायो महाबलः ॥
つねに自己(アートマン)のみによって満ち足り、みずから万有の自己として安住する。財なくとも常に足り、助けなくとも大いなる力を具える。
Ātma-tṛpti (self-sufficiency); sarvātma-bhāva; aparigrahaVerse 13
नित्यतृप्तोऽप्यभुञ्जानोऽप्यसमः समदर्शनः । कुर्वन्नपि न कुर्वाणश्चाभोक्ता फलभोग्यपि ॥
常に満ち足りていながら、あたかも享受しないかのようである。比類なき者でありつつ、平等の眼で観る。行為しても行為者ではなく、享受しない者でありながら、あたかも果報を経験するかのようである。
Akartṛtva/abhoktṛtva; samadarśana; jīvanmukta-lakṣaṇaVerse 14
शरीर्यप्यशरीर्येष परिच्छिन्नोऽपि सर्वगः । अशरीरं सदा सन्तमिदं ब्रह्मविदं क्वचित् ॥ प्रियाप्रिये न स्पृशतस्तथैव च शुभाशुभे । तमसा ग्रस्तवद्भानादग्रस्तोऽपि रविर्जनैः ॥ ग्रस्त इत्युच्यते भ्रान्त्या ह्यज्...
身を帯びているようでいて、これは無身である。限られているようでいて、遍満である。つねに無身なるこのブラフマン知者は、どこかにおいて、あたかも身を有するかのように現れる。愛すべきものも愛すべからざるものも彼に触れず、また吉も凶も同様に触れない。太陽は実は蝕まれないのに、闇のために人々は「蝕まれた」と言う。「蝕まれた」とは、事物の本性を知らぬ迷妄による呼称である。それと同じく、身体などを初めとする束縛から解き放たれた最上のブラフマン知者を、愚者は身体の影像を見て、あたかも身体者であるかのように見る。蛇の脱け殻のように、彼は解き放たれた身として立つ—身はただ残影にすぎない。
Jīvanmukti; asaṅga (non-contact); adhyāsa (superimposition); prārabdha-body as appearanceVerse 15
शरीर्यप्यशरीर्येष परिच्छिन्नोऽपि सर्वगः । अशरीरं सदा सन्तमिदं ब्रह्मविदं क्वचित् ॥ प्रियाप्रिये न स्पृशतस्तथैव च शुभाशुभे । तमसा ग्रस्तवद्भानादग्रस्तोऽपि रविर्जनैः ॥ ग्रस्त इत्युच्यते भ्रान्त्या ह्यज्...
身を帯びているようでいて、これは無身である。限られているようでいて、遍満である。つねに無身なるこのブラフマン知者は、どこかにおいて、あたかも身を有するかのように現れる。愛すべきものも愛すべからざるものも彼に触れず、また吉も凶も同様に触れない。太陽は実は蝕まれないのに、闇のために人々は「蝕まれた」と言う。「蝕まれた」とは、事物の本性を知らぬ迷妄による呼称である。それと同じく、身体などを初めとする束縛から解き放たれた最上のブラフマン知者を、愚者は身体の影像を見て、あたかも身体者であるかのように見る。蛇の脱け殻のように、彼は解き放たれた身として立つ—身はただ残影にすぎない。
Jīvanmukti; asaṅga; adhyāsa; prārabdha-bodyVerse 16
शरीर्यप्यशरीर्येष परिच्छिन्नोऽपि सर्वगः । अशरीरं सदा सन्तमिदं ब्रह्मविदं क्वचित्॥ प्रियाप्रिये न स्पृशतस्तथैव च शुभाशुभे । तमसा ग्रस्तवद्भानादग्रस्तोऽपि रविर्जनैः॥ ग्रस्त इत्युच्यते भ्रान्त्या ह्यज्ञा...
たとえ有身のごとく見えても、真には無身である。たとえ限られたように見えても、遍く行きわたる。常に無身として在るこのブラフマン知者を、ある者は身あるものとして見る。愛すべきものも憎むべきものも彼に触れず、吉も凶もまた触れない。太陽は実際には蝕まれないのに、闇に掴まれたかのように見えるゆえ、人々は「蝕まれた」と言う。それは事物の真相を知らぬ迷妄による呼称である。同様に、身体などの束縛から解き放たれた最上のブラフマン知者も、身体の影を見て迷う者には有身のごとく見える。彼は蛇の脱け殻のように、身を脱ぎ捨てたかのごとく、解脱して住する。
Jīvanmukti; Atman as aśarīra (bodiless) and asaṅga (untouched); avidyā and adhyāsa (superimposition)Verse 17
शरीर्यप्यशरीर्येष परिच्छिन्नोऽपि सर्वगः । अशरीरं सदा सन्तमिदं ब्रह्मविदं क्वचित्॥ प्रियाप्रिये न स्पृशतस्तथैव च शुभाशुभे । तमसा ग्रस्तवद्भानादग्रस्तोऽपि रविर्जनैः॥ ग्रस्त इत्युच्यते भ्रान्त्या ह्यज्ञा...
たとえ有身のごとく見えても、真には無身である。たとえ限られたように見えても、遍く行きわたる。常に無身として在るこのブラフマン知者を、ある者は身あるものとして見る。愛すべきものも憎むべきものも彼に触れず、吉も凶もまた触れない。太陽は実際には蝕まれないのに、闇に掴まれたかのように見えるゆえ、人々は「蝕まれた」と言う。それは事物の真相を知らぬ迷妄による呼称である。同様に、身体などの束縛から解き放たれた最上のブラフマン知者も、身体の影を見て迷う者には有身のごとく見える。彼は蛇の脱け殻のように、身を脱ぎ捨てたかのごとく、解脱して住する。
Asaṅga-ātman; adhyāsa; jñānī’s freedom amid appearanceVerse 18
इतस्ततश्चाल्यमानो यत्किञ्चित्प्राणवायुना । स्रोतसा नीयते दारु यथा निम्नोन्नतस्थलम्॥
プラーナという生命の風により、あれこれと揺り動かされるものは、流れに運ばれてゆく。ちょうど木片が水流に乗って低地や高みを越えて運ばれるように。
Prārabdha and the momentum of prāṇa; non-agency (akartṛtva) of the Self; body as instrumentVerse 19
दैवेन नीयते देहो यथा कालोपभुक्तिषु । लक्ष्यालक्ष्यगतिं त्यक्त्वा यस्तिष्ठेत्केवलात्मना॥ शिव एव स्वयं साक्षादयं ब्रह्मविदुत्तमः । जीवन्नेव सदा मुक्तः कृतार्थो ब्रह्मवित्तमः॥
身体は、時のうちに味わわれるべき経験において、天命(ダイヴァ)によって導かれてゆく。目指すものと目指さぬものへの赴きを捨て、ただ自己(アートマン)として立つ者—その者こそまさにシヴァそのもの、直に現前する者であり、最高のブラフマン知者である。生きながらにして常に解脱し、成就した者—最上のブラフマン知者である。
Jīvanmukti; prārabdha (kālopabhukti); tyāga of saṅkalpa; kevalātma-niṣṭhā; identification of realized Self with Śiva/BrahmanVerse 20
दैवेन नीयते देहो यथा कालोपभुक्तिषु । लक्ष्यालक्ष्यगतिं त्यक्त्वा यस्तिष्ठेत्केवलात्मना॥ शिव एव स्वयं साक्षादयं ब्रह्मविदुत्तमः । जीवन्नेव सदा मुक्तः कृतार्थो ब्रह्मवित्तमः॥
身体は、時のうちの享受と経験のために、天命(ダイヴァ)によって運ばれてゆく。目指すものと目指さぬものへの動きを捨て、ただ自己(アートマン)として立つ者—その者はまことにシヴァそのもの、直に現前する者であり、最高のブラフマン知者である。生きながらにして常に解脱し、成就している—最上のブラフマン知者である。
Kevalātma-niṣṭhā; jīvanmukti; prārabdha exhaustion; non-dual Śiva/Brahman identityVerse 21
उपाधिनाशाद् ब्रह्मैव सद् ब्रह्माप्येति निर्द्वयम् । शैलूषो वेषसद्भावाभावयोश्च यथा पुमान् ॥२१॥
限定付帯(ウパーディ)の滅尽によって、真実(サット)はただブラフマンのみとなる。知者は不二のブラフマンに至る。衣装の有無にかかわらず俳優が同一であるように。
Upādhi-nāśa (negation of limiting adjuncts) and non-duality (advaita)Verse 22
तथैव ब्रह्मविच्छ्रेष्ठः सदा ब्रह्मैव नापरः । घटे नष्टे यथा व्योम व्योमैव भवति स्वयम् ॥२२॥
同様に、ブラフマンを知る最勝の者は常にブラフマンそのものであり、他ではない。壺が壊れると、内の空間が自ずからただ空間となるように。
Jīva–Brahman identity; ghaṭākāśa–mahākāśa illustration; liberation as recognitionVerse 23
तथैवोपाधिविलये ब्रह्मैव ब्रह्मवित्स्वयम् । क्षीरं क्षीरे यथा क्षिप्तं तैलं तैले जलं जले ॥२३॥
同様に、付帯条件(ウパーディ)が融解すると、ブラフマンを知る者は自らただブラフマンとなる。乳は乳に、油は油に、水は水に注がれて一つとなるように。
Upādhi-vilaya; non-difference (abheda) of jñānī and BrahmanVerse 24
संयुक्तमेकतां याति तथात्मन्यात्मविन्मुनिः । एवं विदेहकैवल्यं सन्मात्रत्वमखण्डितम् ॥२४॥
結び合わされたものは一つとなる。同様に、自己を知る牟尼は自己のうちに一として安住する。かくして、身体を離れた孤絶の解脱(ヴィデーハ・カイヴァリヤ)、ただ在ること(サット)のみの不分割の境地がある。
Videha-kaivalya; akhaṇḍa-sat (undivided Being)Verse 25
ब्रह्मभावं प्रपद्यैष यतिर्नावर्तते पुनः । सदात्मकत्वविज्ञानदग्धा विद्यादिवर्ष्मणः ॥२५॥
ブラフマンの境地に到達したこの出家者は、もはや再び還らない。自らの本性が有(サット)であるという智によって、無明などから成る諸身は焼き尽くされる。
Mokṣa as non-return (apunarāvṛtti); jñāna as destroyer of avidyāVerse 26
अमुष्य ब्रह्मभूतत्त्वाद् ब्रह्मणः कुत उद्भवः । मायाक्लृप्तौ बन्धमोक्षौ न स्तः स्वात्मनि वस्तुतः ॥ यथा रज्जौ निष्क्रियायां सर्पाभासविनिर्गमौ । अवृतेः सदसत्त्वाभ्यां वक्तव्ये बन्धमोक्षणे ॥ २६–२७ ॥
この(自己)がブラフマンの本性である以上、どうしてブラフマンに生起があり得ようか。マーヤーによって作り出された束縛と解脱は、真実には自己のうちに存在しない。たとえば動かぬ縄において、覆い(無明)があるかないかによって蛇のような現れとその消滅が語られるように、束縛と解脱もまたそのように語られるのである。
Māyā/avidyā as the basis of bandha–mokṣa; ajāti (non-origination) of Brahman; rope–snake adhyāsaVerse 27
अमुष्य ब्रह्मभूतत्त्वाद् ब्रह्मणः कुत उद्भवः । मायाक्लृप्तौ बन्धमोक्षौ न स्तः स्वात्मनि वस्तुतः ॥ यथा रज्जौ निष्क्रियायां सर्पाभासविनिर्गमौ । अवृतेः सदसत्त्वाभ्यां वक्तव्ये बन्धमोक्षणे ॥ २६–२७ ॥
動かぬ縄において、覆い(無明)の有無によって蛇のような現れが生じ、また退くと語られるように、束縛と解脱もまたそのようにのみ語られる。
Adhyāsa (superimposition) and nivṛtti (sublation) as the basis for speaking of bandha–mokṣaVerse 28
नावृत्तिर्ब्रह्मणः क्वाचिदन्याभावादनावृतम् । अस्तीति प्रत्ययो यश्च यश्च नास्तीति वस्तुनि ॥ बुद्धेरेव गुणावेतौ न तु नित्यस्य वस्तुनः । अतस्तौ मायया क्लृप्तौ बन्धमोक्षौ न चात्मनि ॥ २८–२९ ॥
ブラフマンにはいかなる所にも覆いはない。ブラフマン以外のものが存在しないゆえに、それは本来、覆われていない。「ある」という認識と「ない」という認識は、対象についてのものであっても、いずれも知性(ブッディ)の性質にすぎず、永遠の実在の性質ではない。
Non-duality (absence of a second); epistemic status of existence/nonexistence judgments; māyā as cognitive constructionVerse 29
नावृत्तिर्ब्रह्मणः क्वाचिदन्याभावादनावृतम् । अस्तीति प्रत्ययो यश्च यश्च नास्तीति वस्तुनि ॥ बुद्धेरेव गुणावेतौ न तु नित्यस्य वस्तुनः । अतस्तौ मायया क्लृप्तौ बन्धमोक्षौ न चात्मनि ॥ २८–२९ ॥
これら二つはまことに知性(ブッディ)の性質であって、永遠の実在の性質ではない。ゆえにこの二つ—束縛と解脱—はマーヤーの作為であり、自己(アートマン)には属さない。
Buddhi-dharma vs. Ātma-svarūpa; nitya-śuddha-buddha-mukta nature of SelfVerse 30
निष्कले निष्क्रिये शान्ते निरवद्ये निरञ्जने । अद्वितीये परे तत्त्वे व्योमवत् कल्पना कुतः ॥ ३० ॥
部分なく、作用なく、寂静で、咎なく、汚れなく、二つなき最高の真理—虚空のごときそれにおいて—いかなる想像(概念の構築)がどこから起こり得ようか。
Nirvikalpatva of Brahman; nirguṇa/advitīya nature; ākāśa (space) analogyVerse 31
न निरोधो न चोत्पत्तिर्न बद्धो न च साधकः । न मुमुक्षुर्न वै मुक्त इत्येषा परमार्थता ॥३१॥
滅もなく、まことに生起もない。縛られた者もなく、修行者もない。解脱を求める者もなく、まことに解脱した者もない――これこそが最高の真理(究極の実在)である。
Ajātivāda (non-origination) and paramārtha-sattā (ultimate reality) in Advaita VedāntaAnswers come straight from the texts, with the shlokas they draw on. Ask in your own words.
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