
『パイーンガラ・ウパニシャッド』(Paingala Upanishad、ヤジュルヴェーダ系伝承に結び付けられる)は後期ウパニシャッドの一つで、不二一元のヴェーダーンタ(アドヴァイタ)を簡潔かつ体系的に説き、サンニャーサ(出離)とジュニャーナ(知)を解脱(モークシャ)への直接手段として強調する。中心命題は「アートマンはブラフマンと不二」であり、束縛は無明(アヴィディヤー)によるアディヤーサ—身体・心への誤った自己同一化—から生じ、それは知によってのみ除かれる。ゆえに解脱は儀礼行為の産物ではなく、誤認が止むとき真実が顕れることである。 本テキストは三状態(覚醒・夢・深睡眠)の分析と五鞘(パンチャコーシャ)の弁別を用い、経験される一切が非自己であるのに対し、証人としての意識(サークシン)が不変であることを示す。「ネーティ・ネーティ」(これではない、これでもない)の否定法により、非自己の属性を剥ぎ取り純粋意識を認識へ導く。 またパイーンガラは内的サンニャーサを重視し、行為者・享受者・所有者という感覚の放棄こそ真の出離だと説く。ヴィヴェーカ(識別)、ヴァイラーギャ(離欲)、内的規律、解脱への希求を備え、師のもとで聴聞—省察—瞑想(śravaṇa–manana–nididhyāsana)を実践するとき、直接知が生起し、不二の静けさとしての解脱が成就する。
Start Reading- **Ātman–Brahman identity:** the innermost Self is non-different from brahman
the absolute reality.
- **Avidyā as bondage:** ignorance causes superimposition of body–mind attributes on the Self.
- **Neti-neti / negation:** systematic negation of non-Self reveals the self-luminous witness (sākṣin).
- **Three states analysis:** waking
dream
and deep sleep are transient; the witnessing consciousness is constant.
- **Pañcakośa discrimination:** the five sheaths are objects known to the Self and therefore not the Self.
- **Mokṣa through jñāna:** liberation is not an effect of ritual action but the removal of ignorance by knowledge.
- **Saṃnyāsa as inner renunciation:** abandonment of doership
possessiveness
and ego—not merely external symbols.
- **Śravaṇa–manana–nididhyāsana:** disciplined inquiry under a guru leading to firm abidance in non-duality.
- **Sādhana-catuṣṭaya:** viveka
vairāgya
ṣaṭ-sampatti
and mumukṣutva as prerequisites for realization.
This Upanishad is organized into 4 adhyayas.
パイーンガラは長年の奉仕と聴聞ののち、ヤージュニャヴァルキヤに近づき、カイヴァリヤ(解脱)の至高の秘義を求める。ヤージュニャヴァルキヤは、初めに在ったのはただサット(有)であり、それは常に自由で不変、真理・知・歓喜を本性とし、円満で、第二なき唯一のブラフマンだと説く。ついで世界の多様性はマーヤー/根本自然(プラクリティ)によって現れるにすぎず、蜃気楼の水や貝殻の銀の錯覚のようなものだと説明する。三グナから成り言い表しがたいプラクリティに意識が映ると、それは変わらぬ「証人」(サークシー)と呼ばれる。サットヴァ優勢では覆いの力(アーヴァラナ)としてアヴィヤクタが生じ、そこに映る意識は全知の主イーシュヴァラ—生成・維持・消滅の原因—となる。ラジャス優勢では投射の力(ヴィクシェーパ)としてマハトが現れ、そこに映る意識は宇宙的微細全体としてのヒラニヤガルバと呼ばれるが、究極の狙いは不二一元のブラフマンの悟りである。
パイṅガラはヤージュニャヴァルキヤに問う。万界の創造・維持・融解をなす主(Īśvara)が、いかにして「ジーヴァトヴァ」(個我としての状態)を得るのか。ヤージュニャヴァルキヤは、粗身・微身・因身という三身の起源と差別を弁別することで、ジーヴァと主の関係が理解できると説き、専一の注意で聴くよう促す。 主は五大が「五分混合」(pañcīkaraṇa)された部分を取り、総体と個体の粗身を形成する。粗身は真我ではなく、構成された無常の結果である。さらに未混合の微細要素(apāñcīkṛta)のラジャス分からプラーナが生じ、五つの主要機能(prāṇa, apāna, vyāna, udāna, samāna)と五つの副プラーナ(nāga, kūrma, kṛkara, devadatta, dhanañjaya)、およびその座が列挙される。 続いて五鞘(kośa)が示される。食鞘は粗身、気鞘から識鞘までは微身に属し、歓喜鞘は深睡における未分化の安楽として経験される因の覆いである。最後に、諸根・プラーナ・五大・内器(antaḥkaraṇa)などを「八城」として総括し、個我性は付帯条件(upādhi)によって現れるにすぎず、根底の意識は一つであると結論づける。
この章でパイṅガラ仙は、ヤージュニャヴァルキヤにマハーヴァーキャ(大句)の明確な解説を求める。ヤージュニャヴァルキヤは、「tat tvam asi(汝はそれなり)」や「ahaṃ brahmāsmi(我は梵なり)」の文意を絶えず究明し続けよと説く。「tat」はマーヤーという限定(ウパーディ)を伴う梵—全知者・宇宙原因として現れ、sat-cit-ānanda の性質をもつ—を指し、「tvam」は内器官(antaḥkaraṇa)に結びついた「私」感に依る意識を指す。両側の限定(マーヤー/アヴィディヤー)を捨てると、意図される意味は純粋意識の不二の同一性となる。 また本章は体得の手順を示す。śravaṇa は文意の考察、manana は理による疑いの除去、nididhyāsana は疑いなき実在への不動の安住であり、やがて「瞑想者—瞑想」という二分も手放される。成熟すると、蓄積した業は溶解するとされ、「甘露の流れ」のような静けさと歓喜が現れ、最後に dharma-megha samādhi が無明の残滓を洗い流す。
この章でパイṅガラはヤージュニャヴァルキヤに、知者(ジュニャーニー)の「業(カルマ)」とは何か、またその安住(スティティ)はいかなるものかと問う。ヤージュニャヴァルキヤは、知者の真の「業」は外的儀礼ではなく、謙虚さ(アマーニトヴァ)などの徳に支えられた内的浄化と、知の自ずからの利他力であると説き、ブラフマヴィドの臨在が家族や社会をも高めると述べる。続いて戦車の譬えが示され、アートマンは乗り手、身体は車、ブッディは御者、心は手綱、感官は馬、対象はその行路として、束縛と解脱の因が説明される。最後にナーラーヤナが心臓(ハート)に直接安住する内なる証人であること、そして「享受者」という観念はアートマンが心と感官に結び付くかのように見える時の機能的呼称にすぎないことが明らかにされる。知者のスティティとは、平等心・非行為者性・内住であり、外的行為が続いて見えても汚されない。
31 verses with Sanskrit text, transliteration, and translation.
Verse 1
अथ हैनं पैङ्गलः प्रपच्छ याज्ञवल्क्यं—ज्ञानिनः किं कर्म, का च स्थितिरिति ॥१॥
そこでパイṅガラはヤージュニャヴァルキヤに問うた。「ブラフマンを知る者にとって、なすべき行いとは何か。また、まことにその住処(安住)の境地とはいかなるものか。」
Jñānin (Brahmavid), karma vs. jñāna, sthitaprajñatā/abidance in BrahmanVerse 2
स होवाच याज्ञवल्क्यः—अमानित्वादिसम्पन्नो मुमुक्षुरेकविंशतिकुलं तारयति। ब्रह्मविन्मात्रेण कुलमेकोत्तरशतं तारयति ॥२॥
ヤージュニャヴァルキヤは言った。「謙虚さなどの徳を具えた解脱求道者は、その家系の二十一代を渡らせる。ブラフマンを知る者であるというただそれだけで、一人が家系の百一代を渡らせる。」
Mumukṣutva, sādhana-catuṣṭaya/virtues (amānitva etc.), Brahmavid’s salvific merit, mokṣaVerse 3
आत्मानं रथिनं विद्धि शरीरं रथमेव च। बुद्धिं तु सारथिं विद्धि मनः प्रग्रहमेव च ॥३॥
アートマンを乗り手と知れ。身体をまさに戦車と知れ。ブッディ(知性)を御者と知れ。マナス(心)をまさに手綱と知れ。
Ātman distinct from body-mind; buddhi as discriminative faculty; mastery of mind; sādhana through vivekaVerse 4
इन्द्रियाणि हयानाहुर्विषयांस्तेषु गोचरान्। जङ्गमानि विमानानि हृदयानि मनीषिणः॥४॥
諸感官は馬であり、感官の対象はその行き来する領域である、と言われる。さらに賢者たちは、心臓(ハート)は動く天の車(ヴィマーナ)であると言う。
Indriya–viṣaya bandha (sense-object entanglement) and the inner instrument as the locus of experienceVerse 5
आत्मेन्द्रियमनोयुक्तं भोक्तेत्याहुर्महर्षयः। ततो नारायणः साक्षाद्धृदये सुप्रतिष्ठितः॥५॥
大聖仙たちは言う。感官と心(マナス)に結びついたアートマンこそが、経験し味わう者(享受者)である。しかるのち、ナーラーヤナご自身が、心の中に直接、堅固に安住しておられる。
Jīva (ātman associated with upādhis) vs. inner Lord (Īśvara/Nārāyaṇa) in the heart; adhyāsa and the seat of realizationVerse 6
प्रारब्धकर्मपर्यन्तमहिनिर्मोकवद्व्यवहरति। चन्द्रवच्चरते देही स मुक्तश्चानिकेतनः॥६॥
プララブダ・カルマが尽きるまで、彼はまるで蛇の脱け殻のように(それに関わらず)世に応じて振る舞う。身体を帯びた者は月のように巡り歩く。彼は解脱し、住処を持たない。
Jīvanmukti; prārabdha-karma; non-identification with body (deha-abhimāna-tyāga)Verse 7
तीर्थे श्वपचगृहे वा तनुं विहाय याति कैवल्यम् । प्राणान् अवकीर्य याति कैवल्यम् ॥७॥
聖なる渡し場(ティールタ)であれ、犬を煮る賤民の家であれ、身を捨てて彼はカイヴァリヤ(絶対の独存)へ赴く。諸々のプラーナ(生命の息)を投げ捨てて、彼はカイヴァリヤへ赴く。
Moksha/Kaivalya; de-identification from body and prāṇaVerse 8
तं पश्चाद् दिग्बलिं कुर्याद् अथवा खननं चरेत् । पुंसः प्रव्रजनं प्रोक्तं नेतराय कदाचन ॥८॥
その後、方角への供物(ディグ・バリ)を捧げるか、あるいは埋葬のために穴を掘るべきである。人の出家・遊行(プラヴラジュヤー)は自らのためと説かれ、決して他者のために行うものではない。
Sannyāsa/pravrajyā; non-transferability of spiritual renunciationVerse 9
नाशौचं नाग्निकार्यं च न पिण्डं नोदकक्रिया । न कुर्यात् पार्वणादीनि ब्रह्मभूताय भिक्षवे ॥९॥
不浄の期間(アシャウチャ)もなく、火の儀礼もなく、ピンダ(飯団子の供養)もなく、水の儀礼(ウダカ・クリヤー)もない。ブラフマンとなった托鉢者のために、半月の祭儀など(パールヴァナ等)を行ってはならない。
Jīvanmukti/ Brahmabhāva; transcendence of ritual obligations (karma)Verse 10
दग्धस्य दहनं नास्ति पक्वस्य पचनं यथा। ज्ञानाग्निदग्धदेहस्य न च श्राद्धं न च क्रिया॥१०॥
焼かれたものに再び焼却がなく、煮えたものに再び煮炊きがないように、智慧の火によって身(身体的な行為主体の感覚)が焼き尽くされた者には、シュラーダ(追善供養)も儀礼的行為もない。
Moksha (jñāna-nisṭhā; transcendence of karma and ritual obligation)Verse 11
यावच्चोपाधिपर्यन्तं तावच्छुश्रूषयेद्गुरुम्। गुरुवद्गुरुभार्यायां तत्पुत्रेषु च वर्तनम्॥११॥
限定要因(ウパーディ)の及ぶ限りにおいては、師に随い、師に奉仕しつつ聴聞すべきである。また師の妻とその子らに対しても、師そのものに対するのと同様に振る舞うべきである。
Guru-śiṣya-paramparā; upādhi (limiting adjuncts) and discipline (sādhana)Verse 12
शुद्धमानसः शुद्धचिद्रूपः सहिष्णुः सोऽहमस्मि सहिष्णुः सोऽहमस्मीति प्राप्ते ज्ञानेन विज्ञाने ज्ञेये परमात्मनि हृदि संस्थिते देहे लब्धशान्तिपदं गते तदा प्रभामनोबुद्धिशून्यं भवति॥१२॥
心が清められ、純粋意識の本性となり、忍耐に満ちて「私はそれである、忍耐なるそれである。私はそれである」と悟る。知と実現された洞察が得られ、知らるべき最高我(パラマートマン)が心臓に安住し、身体において寂静の境地が得られるとき、そこには心と知性の影すらなくなる。
Atman/Brahman realization; antaḥkaraṇa-śuddhi; mano-nāśa (cessation of mind as a limiting appearance)Verse 13
अमृतेन तृप्तस्य पयसा किं प्रयोजनम्। एवं स्वात्मानं ज्ञात्वा वेदैः प्रयोजनं किं भवति। ज्ञानामृततृप्तयोगिनो न किञ्चित्कर्तव्यमस्ति। तदस्ति चेन्न स तत्त्वविद्भवति। दूरस्थोऽपि न दूरस्थः पिण्डवर्जितः पिण्ड...
不死の甘露(アムリタ)に満ち足りた者に、乳は何の用があろうか。同様に、自己のアートマンを悟ったなら、ヴェーダは何の目的を持つのか。智慧の甘露に満たされたヨーギーには、なすべきことはまったくない。もしなお為すべきことが残るなら、彼は真理を知る者ではない。「遠い」と見えても遠くなく、身を離れていても、また身の内にあっても、内なるアートマンは遍満となる。
Moksha through Atman-Brahman knowledge; akartṛtva (non-doership) and all-pervasiveness of the inner SelfVerse 14
हृदयं निर्मलं कृत्वा चिन्तयित्वाप्यनामयम्। अहमेव परं सर्वमिति पश्येत्परं सुखम्॥१४॥
心を清らかにし、病なき自己を観想して、「我こそ至上、我こそ万有」と観よ。かくして最高の安楽(至福)が現成する。
Antaḥkaraṇa-śuddhi and aparokṣa-jñāna (direct realization) of non-duality; Brahmānubhava as paramānandaVerse 15
यथा जले जलं क्षिप्तं क्षीरे क्षीरं घृते घृतम्। अविशेषो भवेत् तद्वज्जीवात्मपरमात्मनोः॥१५॥
水を水に注げば水となり、乳を乳に、ギーをギーに注げば差別がなくなるように、個我(ジーヴァ・アートマン)と至高我(パラマートマン)との間にも不二がある。
Jīva–Brahman aikya (identity); bheda-nivṛtti (negation of difference)Verse 16
देहे ज्ञानेन दीपिते बुद्धिरखण्डाकाररूपा यदा भवति तदा विद्वान् ब्रह्मज्ञानाग्निना कर्मबन्धं निर्दहेत् ॥१६॥
身体が知によって照らされ、 बुद्ध知(ブッディ)が分割なき不二の認識の形となるとき、知者はブラフマン智の火によって業(カルマ)の束縛を焼き尽くすべきである。
Moksha (liberation) through Brahma-jñāna; destruction of karma by knowledgeVerse 17
ततः पवित्रं परमेश्वराख्यमद्वैतरूपं विमलाम्बराभम्। यथोदके तोयमनुप्रविष्टं तथात्मरूपो निरुपाधिसंस्थितः ॥१७॥
その後、清浄にして「至上主」と呼ばれるもの――不二の本性をもち、汚れなき大空に似たもの――が悟られる。水が水に溶け入るように、自己の姿は付帯条件(ウパーディ)なく安住する。
Brahman/Ātman non-duality; nirupādhi (freedom from adjuncts); identity/mergence imageryVerse 18
आकाशवत्सूक्ष्मशरीर आत्मा न दृश्यते वायुवदन्तरात्मा। स बाह्यमभ्यन्तरनिश्चलात्मा ज्ञानोल्कयापश्यति चान्तरात्मा ॥१८॥
虚空のように、微細身と結びついていても自己は見えない。風のように、内なる自己は捉えられない。その内なる不動の自己は、外と内とに遍満し、知の松明によって『見る』のである。
Ātman as subtle, invisible, all-pervading; knowledge as the means of ‘seeing’ (aparokṣa-anubhava)Verse 19
यत्र यत्र मृतो ज्ञानी येन वा केन मृत्युना । यथा सर्वगतं व्योम तत्र तत्र लयं गतः ॥१९॥
智者がどこで、いかなる死によって死ぬとしても、遍在する虚空があらゆる所にあるように、彼はその処その処で融解(ラヤ)へと帰入する。
Moksha (videha-mukti), laya in Brahman; all-pervasiveness of Ātman/BrahmanVerse 20
घटाकाशमिवात्मानं विलयं वेत्ति तत्त्वतः । स गच्छति निरालम्बं ज्ञानालोकं समन्ततः ॥२०॥
壺の中の虚空のごとく、真実に自己の融解を知る者は、支えなき(ニラーランバ)智慧の光へ、四方あまねく到達する。
Ātman–Brahman non-difference; upādhi-bheda (apparent limitation) and its negation; nirālamba-jñānaVerse 21
तपेद् वर्षसहस्राणि एकपादस्थितो नरः । एतस्य ध्यानयोगस्य कलां नार्हति षोडशीम् ॥२१॥
人が片足で立ち、幾千年もの苦行を行うとしても、この瞑想のヨーガの十六分の一にも値しない。
Dhyāna/Nididhyāsana as superior means toward jñāna; critique of mere tapas without liberating insightVerse 22
इदं ज्ञानमिदं ज्ञेयं तत्सर्वं ज्ञातुमिच्छति। अपि वर्षसहस्रायुः शास्त्रान्तं नाधिगच्छति॥२२॥
「これが知識、これが知られるべきもの」としてそれらすべてを知ろうと願っても、たとえ千年生きても聖典(シャーストラ)の尽きるところには至らない。
Jñāna vs. śāstra-vistāra; limitation of encyclopedic learning; primacy of liberating knowledge (ātma-jñāna)Verse 23
विज्ञेयोऽक्षरतन्मात्रो जीवितं वापि चञ्चलम्। विहाय शास्त्रजालानि यत्सत्यं तदुपासताम्॥२३॥
知るべきはただ不滅なるもの(アクシャラ)のみ。命はまことに移ろいやすい。聖典の網を捨て、真実なるものを礼拝し、観想せよ。
Akṣara (Imperishable Brahman/Ātman); vairāgya; satya-upāsanā leading to jñānaVerse 24
अनन्तकर्मशौचं च जपो यज्ञस्तथैव च। तीर्थयात्राभिगमनं यावत्तत्त्वं न विन्दति॥२४॥
尽きることなき儀礼と浄め、ジャパ、また供犠、そしてティールタへの巡礼—それらは、真実在(タットヴァ)を見いださぬかぎり続く。
Karma-kāṇḍa limitation; tattva-jñāna as culmination; mokṣa through knowledgeVerse 25
अहं ब्रह्मेति नियतं मोक्षहेतुर्महात्मनाम्। द्वे पदे बन्धमोक्षाय न ममेति ममेति च॥२५॥
確かな智「我はブラフマンなり」は、大いなる魂の解脱の確定因である。束縛と解脱には二つの語がある――「我がものにあらず」と「我がものなり」。
Moksha through Brahma-jnana; mamakara (mine-ness) as bondageVerse 26
ममेति बध्यते जन्तुर्निर्ममेति विमुच्यते। मनसो ह्युन्मनीभावे द्वैतं नैवोपलभ्यते॥२६॥
「我がものなり」によって衆生は縛られ、「我がものにあらず」によって解き放たれる。なぜなら、心がウンマニーの境地にあるとき、二元はまったく知覚されないからである。
Mamakāra as bondage; unmanī (mind-transcendence) and nonduality (advaita)Verse 27
यदा यात्युन्मनीभावस्तदा तत्परमं पदम्। यत्रयत्र मनो याति तत्रतत्र परं पदम्॥२७॥
ウンマニーの境地に至るとき、それこそが至上の住処である。心がどこへ赴こうとも、そこに—そこに至上の住処がある。
Paramapada (supreme state) as nondual Brahman; omnipresence of Brahman; unmanī as contemplative pointerVerse 28
तत्र तत्र परं ब्रह्म सर्वत्र समवस्थितम्। हन्यान्मुष्टिभिराकाशं क्षुधार्तः खण्डयेत्तुषम्। नाहं ब्रह्मेति जानाति तस्य मुक्तिर्न जायते॥२८॥
ここにもあそこにも、至上のブラフマンはあまねく等しく遍在する。拳で虚空を打つこともできようし、飢えに苦しむ者が殻を砕くこともあろう。だが「我はブラフマンなり」と知らぬ者には、解脱は生じない。
Moksha through Brahma-jñāna (Aham Brahmāsmi)Verse 29
य एतदुपनिषदं नित्यमधीते सोऽग्निपूतो भवति। स वायुपूतो भवति। स आदित्यपूतो भवति। स ब्रह्मपूतो भवति। स विष्णुपूतो भवति। स रुद्रपूतो भवति। स सर्वेषु तीर्थेषु स्नातो भवति। स सर्वेषु वेदेष्वधीतो भवति। स सर्व...
このウパニシャッドを日々学ぶ者は、火によって清められ、風によって清められ、太陽によって清められ、ブラフマーによって清められ、ヴィシュヌによって清められ、ルドラによって清められる。彼はあらゆるティールタに沐浴した者のごとく、すべてのヴェーダを学んだ者のごとく、すべてのヴェーダの戒めと修行を実践した者のごとくなる。ゆえに、無数のルドラ讃歌とイティハーサ・プラーナを誦した果報が得られ、またプラナヴァ(オーム)を一万回唱えたのと等しい。十代の祖先と十代の子孫を浄め、食事の列を浄める者となり、偉大となる。さらに、婆羅門殺し、酒飲み、黄金盗み、師の床を犯すこと、ならびにそれらに関わる罪から清められる。
Śravaṇa/adhyayana as purificatory means supporting Brahma-jñāna; pāpa-kṣaya and adhikāritvaVerse 30
तद्विष्णोः परमं पदं सदा पश्यन्ति सूरयः। दिवीव चक्षुराततम्॥३०॥
ヴィシュヌのその至高の境地を、賢者たちは常に観ずる――天に広がる眼のように。
Paramapada / supreme reality as ever-visible to the illumined; Brahman as the highest ‘abode’Verse 31
तद्विप्रासो विपन्यवो जागृवांसः समिन्धते। विष्णोर्यत्परमं पदम्। ॐ सत्यमित्युपनिषत्॥३१॥
霊感を受けた聖仙たち、讃歌を知り、目覚めている者たちは、それを燃え立たせる――ヴィシュヌの至上の境地を。オーム――「真実」:これぞウパニシャッドである。
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